生きてる証を刻み込む
不便な道具
何を言っても気持ちは伝わらない。言葉の限界を感じる時があるね。たいていはそれ以前の問題の時が多いけれどね。そもそも言葉の解像度はそれほど高くはないね。だからコミュニケーションの手段としては、言葉だけで伝えようとはしていない。実際はしぐさだったり声色だったり間の取り方や緩急や抑揚をつけて全身全霊で伝えている。それでもあなたの思いが100として60ぐらい伝われば上出来な方だね。そんなことを毎回繰り返しているというわけだよ。
文字は記号
こうして文章を紡いで伝えようとするときは、普段のコミュニケーションとは違うところがあるね。表情や声色や仕草が使えない。ゆえに感情を直接的に表現するには文字という記号の世界で勝負しなければならない。読者は単なる液晶の点滅を見て文字を見出し、それを言葉に変換して意味をとらえている。そしてその意味から文脈を感じ取り、その語順や修飾語の配列や選別によって何を言わんとしているのかを類推している。書くことよりも読むことの方が、高度な処理をしなければ解読できないね。だから書き手はできるだけの力を使って表現や言い回しや論理構成を慎重に構築している。思いを文章にしてそれを記号として記録するのは面白いしやりがいも感じるけれど、一方で解読する側もそれなりの処理をしないといけないので、長い文章を解読するには多少の訓練がないと疲れてしまうね。
数字と文字と壁絵
記号は長期保存に便利だし、記録として重宝してきた。共通化できればそれを解読できる仲間も増え、解読できるからこそ共感と関係性が生まれて社会を生み出すことができたね。それでも現代では日本語というかなり高度な言語よりも世界で広く使われている英語を習得しようと多くの人は躍起になっている。なんといってもアルファベット26文字で記録できるなんて合理的でとても便利だね。日本語はとても記号が複雑すぎて習得に時間がかかりすぎるから共通語にするにはむいていない。漢字、ひらがな、カタカナを巧みに操つり、語順の曖昧性と自由性の中でコンテキストを表現しなければならない。もし母国語が日本語でないのに日本語を習得しなければならないとすると、ちょっと絶望的になるね。そんなことを考えながら今日も駄文を紡いでいる。文字記号と格闘して、今ここにいる幸せを感じているだけなんだけどね。