未知との遭遇

日々

もう一度

あれはうまかったなぁ、できたらもう一度食べたいなぁ、なんて思っている。こんな風に過去に体験した感動が今の基準になっていることが多いね。そしてまた思わぬところで感動すると、これまでの良いことが上書きされてどんどん基準が高くなっていく。やがてそれはキリがないということに気づき、ある程度で折り合いをつけるのだけど、できればそれ以上の体験が起こることをどこかで期待しているね。そうやっておおよそ良いこととは、これまでの体験の中で選ばれるんだね。体験もしていないことはあなたの選択肢の中にはないから、良いも悪いも判断できない。しらずしらずのうちに、あれはよかったという体験はあなたが良いものとする基準になっているね。

良いこと

良かった、悪かった、いまいちだった、素晴らしかったなどといつも判定している基準は、こうしてあなたの体験が生み出しているね。だから体験するということがあなたの人生を決めているとも言える。いくつもの体験を通じてあなたはあなたの価値観を決定づけ、目の前の出来事をどう見るかという視座を得ている。まさに体験がすべてを決めているとすれば体験があなたそのものとも言えるね。そしてそれはあなたしかわからない固有の世界でもある。良いことは共通していると思っているけれど、実はそれほど共通でもなくぼんやりとしたイメージを共有しているぐらいのつながりしかないね。だって仮に同じ出来事を目の当たりにしたとしても、それぞれが同じようにその出来事を体験しているとは限らず、おそらくは少しずつ違った体験として捉えられている。おおよそで話ができればそれで十分ぐらいの共通性しかそこにはないと思っていいね。

まだ見ぬこと

過去の体験を通じて得た良いことを、少し拡張したものが願いとなるね。あれは美味しかったけれど、もしかしてあれを超える美味しいものがあるのならぜひ食べてみたい、という風にね。過去の体験があなたの良いことを決めて、そこから類推して拡張している。それは体験が良いことを決めて、もしかしたらという想像がその上に成立したときに、初めて経験を超えるってわけだね。その拡張して生まれた願いはやっぱり体験がベースとなっている。体験がないことを拡張することは不可能ではないけれど、真の願いに転ずるかというとかなり難しいね。実感がないとすべてが幻想となってもはや良い悪いを超越したなにかになってしまうからね。今日もあれを食べたいなぁなんて思えるのは、すべては体験というデータベースを検索して思っている。それは過去でしかないね。まだ見ぬ未来に思いを馳せるなら、体験したこともなく、知らないことはすべて良いことなんだって思えるかどうかだね。