ひとつやふたつ

日々

数字

数字は単なる記号であって、抽象的かつ具体的な意味をそこに含んでいるね。50という数字があって直感的に半分というふうに認識するんだけど、半分っていうのは多いのか少ないのかは意見が分かれるね。数字は記号として50と記録しているだけで事実をそこに表している。よくある話で、まだ半分もあると思うか、もう半分しかないと思うか、それは見ている人の視点によって感じ方が千差万別になるね。だから同じ数字をどう読み解くかは全く自由な世界となる。数字を見て印象が全く違うから、数字だけで何かを語るのはその前提としての共通認識を確かめないとうまくいかないね。50が半分だと思ったのは100が最高値だと勝手に解釈したからだね。最高値が50かもしれないのにね。

抽象化と具体化

数字は抽象化する。3800円と書いてある数値はそれ自身揺るがない貨幣価値を表している。けれど、3800円の内訳はとても複雑だね。それがなにかの製品だったとしたら、まず材料を作っているところから仕入れた費用、それを運搬した費用、それを工場で加工した費用、そこで働く労働者の賃金、そこの社長の取り分、そしてそれを売っているお店の経費、店主の取り分などを全部合算して3800円なんだね。3800円から何を読み取るかは、どういう視点からその物語を構築するかによって異なるね。ということは、数字は絶対という考え方を濫用するとまるで真実が見えなくなってしまうね。

数える命

今日は1200人が感染して、12人が死亡しました、なんてニュース番組は伝えている。人や命を数字として数えているね。でも病や死は数字ではないことをあなたは知っている。数字に例えることができるのは神様の視点しかない。親しい人の死は身近であり、悲しみにくれ、それが1なんていう表現をするはずもない。それは最高値であり数値化なんてできないね。でもニュースキャスターは1と伝える。伝えられたあなたは1と捉える。そんな視点に多くの人が疑問ももたないで同じように数えている。今日は900人か、なんだかちょっと減ってきたねぇ、なんていう会話が日常になっているね。数字は絶対的に事実を伝えているとあなたは思い込んでいるけれど、それは本当に絶対で真実なのかな?