この壺を買えば幸せになれますよ

色々

  • 鰯の頭も信心から

科学か宗教かでいつも論争があるが、結局のところ、祈りであっても科学であってもしくみ的にはどちらを信じるか。近代になって宗教は科学に取って代わって思考を支配した。
えせ科学や非科学は根拠としての地位を失い、科学的根拠から現実を判断し行動する様式が世界的に主流になった。

マスメディアはいかにも「科学的根拠」らしい数値やグラフを毎日のように喧伝し、それがもっともらしいことであるかのように人々に伝えて思想を染めているように見える。
何を信じるかを統制してコントロールしている。多数の思想をできるだけ同じ方向に向けることが第一の目的で、現実や実際はどうであるかはあまり説明しない。

自然現象をどう捉えるかということで、認知革命以降、人類は「祈り」から「科学」へシフトした。科学至上主義を現代の大多数の同意とすれば、科学信仰として物事を見なければならない。その際のデータを誠意をもって提供することが肝要となるはずで、伝えるべきことはそれ以外にないはずである。

例えば「感染者数」を日々刻々とその増減を報道して自粛を促しているが、そもそも感染者数ではなくて「患者数」である。新型ウィルスは感染しても「無症状」もしくは「軽症」の方がほとんどだと報じている。したがって感染者数は正直「わからない」はずである。言葉遊びのようであるが、正確性に欠ける用語をわざと使っているのかどうかの真偽は定かではない。だが、どうしてより「正確」にデータを伝えないのか。
再生産数とかオーバーシュートとかクラスターとか馴染みのない言葉をあえて使って煙に巻いているように見える。

そうして人々を混乱に陥れて「今できることを」や「三密」などが科学的に根拠に基づいてはじき出された方策だと思い込ませているようだが、そこにはなにか別の意図があるのかないのか。
自粛したりロックダウンしたりすることが「正義」であり、それに従わないのは他の人の命を奪うことになると人々を恐怖に陥れて、自粛そのものが目的化した「自粛警察」や「自粛自警団」を生み出している。
多少の暴走はやむを得ないとしても、行き過ぎると新たな被害が出る場合には、それを制御するのが本来のメディアや政治の役割だと思う。

  • みなさんの命がけの自粛の頑張りが広がりを防いだのです。一部の人は致命傷を負いましたがやむを得ませんね。その犠牲を無駄にしないためにも今後とも気を引き締めて変わらぬ自粛をよろしくおねがいします。

と、

  • あのとき無理してでもこの壺を買っておいてよかったですね。だからこの程度の被害ですんだのですよ。救われたのです。さらにもう一つ買えばもっと幸せになれますよ。おひとついかがですか。

同じ論法に見えるのはひねくれ者の私だけだろうか。
知らんけど。