ずっと夢の中
健康
ヒトは健康でいたいと願う唯一の動物だね。ヘルシーとか体にいいとかで喧伝するとあっという間に普及し流行る。不健康か健康かという区別はとても曖昧で、そこに絶対的な境界はなく、どちらかというとかなり恣意的に分類されている。たとえばリンゴといえばそれぞれがリンゴを思い浮かべるけれど、ほとんどがぼんやり赤いリンゴかな。でも青リンゴもあるし、赤といってもジョナゴールドのような鮮やかな赤もあれば、フジのように淡い赤もあるね。ということはリンゴが実在するそれを表すことができるのは、その場でリンゴを見ていて、そのリンゴのことを話したり書いたりしているときだけなんだね。目の前にリンゴが存在しない場合においては、リンゴという言葉で話をしてもあいまいな概念であって、実存しない。同じように健康とか不健康とか身体にいいとか悪いとかも概念、すなわち幻想であって「そこには存在しない」んだよ。
安全
ほら、だから言葉の定義をしっかりしないと、結局議論にならないとよく言われるね。だから先のリンゴも例えば紅玉という種類のリンゴに限るとしてすすめたとしても「実存しない」のは変わらないね。いやいや、そこまで厳格に定義しているのだから実存するだろうと思っているかもしれない。でも紅玉というリンゴは八百屋に行けば買える。その買ってきたリンゴについて語れば「そのリンゴ」の話となる。でも紅玉という種のばらつきは避けられないね。特徴や大まかな姿は似ているけれど、厳密には違う。その瞬間に概念化されて消えてなくなるわけだね。安全という言葉もそうだね。安全は八百屋に行っても買うことができない。なんとなく安全という言葉の定義は間違いないと思い込んでいるけれど、そんなものはどこにもないんだよ。安全という言葉に振り回されているのは、あたかも実現可能なフリをして誰かがあなたに語るからだね。
環境
こどもたち、という言葉もそう。おそらく親ならばそれぞれ目の前の我が子を思い浮かべるだろうね。その子どもたちのために豊かな地球環境を残してあげないといけないと、まことしやかにマスコミは喧伝しているね。その宣伝のために女の子を使ったりもするし、大量のエネルギーを使いながら世界に発信している。やり口が狡猾極まりないね。そんなヒトはジェット機に乗り、自動車に乗り、エアコンで快適な生活をしているに違いない。環境っていう言葉も先のリンゴとか安全とかと同じで、おそらくはそれぞれの頭の中にしか存在しない。日本では山里の風景なんかが思い浮かべられることが多いのかな。それとも海辺で生活していた人は穏やかな海原を想像するのかな。とにかくやっかいなのは環境という言葉はどこまでいってもその状態をつかまえることが難しいっていうこと。国によっても政治によっても環境という概念は大きくブレてしまうね。本来の動物であるヒトとして、狩猟採集生活にまでさかのぼって国家や文明から離れた暮らしをすれば環境に良いのだろうか?それは極論だと反論されるだろうね。だから今できる環境保全と持続可能性などを模索している。悲しいことに環境に配慮すればするほど環境負荷を高めることになってしまうのが文明なんだけれどね。だから文明とうまく付き合いつつのらりくらりと暮らすのが一番環境にもよく持続できそうだね。