恣意的な世界

日々

世界はあなた

あなたがどう見ているかが目の前の世界を決めている。出来事をどう見るか、どう翻訳するかでまさに世界が一変する。なんだかんだで幸せだなと感じられるか、真っ暗闇にぽつんと一人ぼっちと思うのかで同じ景色も随分と意味合いが変わってくるね。要はそういうことをずっと先人は伝えようとしているね。あなたが世界であり、あなたはわたしを生み出し、あなたが神そのものである、なんて言葉は違うことを言っているようで、一つの同じことしか言っていないことに気づくね。常にあなたには、そういうあなたを見ている誰かがいることを感じられるかな。あなたは自分のことを自分だと思いこんで生きているけれども、その自分をどこかの誰かがさらに見ているね。言葉遊びになってしまうけれど、あなたはあなたを見ることはできず、他の誰かが少し離れてあなたを見ている。それは誰かな、とかもよく言われる。

言葉の限界

世界は言葉でできているね。出来事や現象を言葉化することでイメージして認識できる。言葉化できないとイメージも認識もできない。伝えにくいものもイメージしにくいものとしてイメージできて言葉化している。言葉は抽象化と具体化をいったり来たりできてとても便利だね。ズームインもズームアウトも自在にできることで、視点をいつでも移動させることができるね。そのおかげでいろんな角度で同じものを見渡せる。しかし言葉も万能なツールではない。先のあなたをみている誰かとかいう存在の説明がしにくいね。特に一人称が弱い。わたしはヒトである、なんて言うととたんに破綻するね。そのわたしを見ている誰かの視点があるから、わたしはヒトと認識できるのだからね。わたしはヒトである、といっているわたしを見ているのはわたしである。はてさて、わたしはわたしを見られるのかな。

論理的関係

肯定的に表現するのは難しいので、否定で表そうとする試みもあるね。わたしはヒトではない、なんて言うとぎょっとするね。じゃぁ何なんだと言われるけれど、実はこれがいつもわたしをみている誰かを絶妙に表現できたりする。私はヒトではない、と突拍子もなく発言しているのを見ているのがわたしなのである。なんて言うとちょっと近くなったけれど、見ているわたしをさらに見ている誰かがいるから、もう合わせ鏡のようになって言葉ではすべてを表現することが難しいという特性がわかる。そういう言葉の限界の中で世界ができているんだよ。だから見るもの聞くものすべてがそういった言葉の制限を受けていることに気づくと、まさにがらっと世界が変わるんだよ。