やばい

日々

無意味

すべてに意味なんてないといえばそうなるし、すべてが意味があるといえばそうなる。意味はそのものにあるのではなくて、あなたが生み出しているということだね。すなわち意味は外側にあるのではなくて内側にあって、しかもあなたしかそれを感じることができないことなんだよ。ということは、意味に縛られたり悩んだりするということは、自分自身で罠をしかけてそれに自らかかっている状態となる。それを自作自演と呼んで注意を促しているんだけれど、やっぱり意味は外側にしかないと思って探してしまう。それは、他人からどう見られているかを常に気にするというサブルーチンがプログラミングされているからだね。本能的にも他人からどう見られるかの処理結果を無視して生きるわけにはいかない。だからあちこちにそのプログラミングが仕込まれているというわけだ。

自己顕示

あなたは意味なくムダな存在なんて言われるとショックだろうし、もしかしたら激怒するかもしれないね。それと同じことで、老害という言葉で年老いて生産性が低くなった人間は社会にとって不必要だとかいうことを明るくポップに表現して流布している。もちろん生産性で人の価値が決まるかどうかはあなたが決めているんだし、いずれあなたもそうなることはおぼろげながら感じつつ言葉を受け入れている。これをしかけているのはいつもメディアなんだけれど、売春をパパ活と言い換え、弱者差別を老害と呼ぶのはやっていることの本当の残酷さを覆い隠し、やっている当人も罪の意識もなくみんなやっているからそうしているだけと軽いノリを生み出している。いずれこれらも流行語大賞なんかにノミネートされるんだろうね。そうやって時代の鏡を浮き彫りにしている風に言説がなされるけれど、仕掛け人も同じ穴のムジナなので壮大なマッチポンプを繰り返すのがマスコミの日常と言うわけだね。それに食らいついてみているのもあなただから片棒を担いでいるわけだよ。

社会人

もはや一人で生きるチカラを失った人類は、誰かに依存することでしか日々の暮らしもままならなくなってしまった。だからできることといえば、誰かに文句を言うことしかできない。電気が止まれば電力会社、ガスが止まればガス会社、雨漏りすれば大家に、ちょっと野菜に虫が入っていればスーパーに、店員さんが気に入らなければコンビニに、できることは唯一つ、文句を言うことだね。なぜなら、それらすべてを自ら生み出すことはできないからだね。逆にそれで電気を止めるぞ、携帯を止めるぞって言われるとどうしようもない。まさに家畜化されていることにどれだけの人が気がついているのだろうね。そこで、自己顕示欲など他人にどう思われているのだろうと気にして生きている。思ったように良く見られてないことを知ると、それも見当違いの誰かを見つけて文句を言うことしかできないね。その恐ろしさに気がついて震えている人はどれだけいるのだろうね。