ムリな話
合理的
ムリ・ムダ・ムラを省くことが正しいとされていた時代があったね。もちろん今でも優先順位をつけて、合理的に作業を処理することで手戻りやムダを省くことが正しいのかな。でもこれに特化したおかげで何が起こったのか。それを考えてみる時間をとった方がいいと思うよ。そういう時間はムダだと指摘されるから真っ先に削減すべき対象なんだろうけれど、そこにイマイチなあなたの人生のヒントがあるかもね。ボーッとしたり、ムダな時間やダラダラして過ごすことが、実は幸せを生み出しているなんて夢にも思っていないだろう。そこを削りに削って現代化してきた社会が今悲鳴を上げている。社会の潤滑油が切れてキコキコ音をたてて軋んでいる。そう、合理的に生きるなんて不可能だからなんじゃないかな。
社会意識
ムリ、ムダ、ムラを峻別しているのはなにか。それは肉体ではなく思考だね。思考とはなにかといえば意識とも言える。ここの区別がとても曖昧だけど、現代医学では脳ということになる。あなたの頭蓋骨に守られていて、死んだあと解剖すればそれは確実に入っているみたいだね。自分では見たことがないけれどね。しかし、脳をいくら分解しても意識や思考や記憶が今の所どの部分でどう生まれているかはおおよその見当はついているみたいだけれど、実はあまりわかっていないみたい。あなたを切り刻んで小さく分解してもその仕組みはどこにも見当たらないね。つまり肉体は物体であって、そこにあるもの。しかし意識は脳が勝手に作り出すバーチャルなものでしかない。現実だと思っているあなたの人生はすべて架空のものって言うわけだね。その架空なものの中でムリ、ムダ、ムラを省くなんていうことも架空のものでしかない。ムダがあるなんて言うけれど、ムダっていうのはどういうものかを定義しているのは意識。その意識の発生原理は物理的にあるわけではないものなんだからね。
有機的
何に論拠をおいた方がいいかというと、肉体の方だね。肉体は物体としてまさにそこにある。生命活動も化学変化のエネルギーを使って細胞内で分解、合成をしている様子が見て取れる。それらが無数にあって、その総合体がなぜか身体となっているね。分解すればそれぞれをあなたと言えるのだろうか。どこまでがあなたの身体と言えるのか。そこにムリ、ムダ、ムラがあるとかないとか議論すべきものなのか。肉体を細胞レベルで分解して一つ一つ観察すればとても良くできているが、すべてが合理性の塊かどうかは定かではないね。合理化というのはそういうレベルの話。つまり大量消費社会という背景があって、たくさんのものを短時間で作れば儲かるという時代の考えにすぎないってこと。それが金科玉条のように未だに唱えられているのは、もはや時代遅れなんじゃないかな。