ムダ判定
削っても
今どきは、あらゆるムダを削減すればすべてがうまくいくなんて思っている人はいないだろうけれど、たまにそういう錯覚に陥ることがあるね。無理を通せばムダが生まれるって誰かが言っていたような気がするけれど、ムダは必要だから常にそこにあることに気づかないといけない。有名な話で働きアリがよく例に出されて、パレートの法則の代表例のようになっているけれど、おおよその成果は2割の優秀なアリによって生み出されている。だから残り8割はただ怠けているだけのように見えるか、ムダな動きばかりしている存在として区別されるね。なら、少数精鋭で優秀な2割だけで構成してみたら、またそこでさらに優秀なままの2割となんだかよくわからない存在の8割に分かれてしまうという。つまりエネルギーというか自然となにかのバランスを保っているようだね。
必要悪
そうすると、人は自分がしたいことよりも人からどう見られるかの方が重要なようで、ムダだと思われる8割の中のひとりになるぐらいなら、優秀な2割になろうとする人が出てくる。いわゆる意識高い系だね。まだ掃除、洗濯に人生の貴重な時間を費やしているの?とか言われ、断捨離もできずにモノに溢れた生活をしていると時代遅れでコスト体質と揶揄され、そんなやつとは会話するのもムダと罵倒される。そう言われて自分もそこから脱出しなければと、また他ののんびり過ごしている友人を同じように批判して自らが優秀なように演じている。大事なことだから繰り返しておこう。コインの裏表と同じように、いわゆる優秀さの裏にはムダが必要で、ムダという存在がなければ誰が優秀なのかわからなくなってしまうね。もうその時点で二律背反ってことなんだよ。
いいとこ取り
トレードオフな関係であっても、両立不可能だと思われていたことに対する果敢な挑戦によって技術革新や社会革命や進歩を人類にもたらしてきた。だから一見パラドクスに見える命題を両立させるにはどうするかを考えることが重要だと教えられてきたね。進化主義というか科学至上主義の考えが現代では主流となっている。モノの材料の世界では耐久性が抜群で固くて壊れにくいけれど加工が簡単で軽量で安価であることという風に相反する性質を同時に求められたりするね。だからムダを省いて効率化アップというのは、それほど抵抗なく今では常識化している。そこに落とし穴があるんだよ。なぜならムダの定義を考えてみよう。ムダは絶対値として計測できて定義できるような性質のものなのかどうか。さて、先の材料の世界とムダという人の意識の世界は似て非なるものに気づけたかな。信じる科学も意識上でしか存在し得ない儚いものなんだよ。