学び
学ぶ
学校で学ぶとか生涯教育とかなんとかセミナーはいわゆるハウツーを伝えているにすぎない。あんまり思い出したくない人もたくさんいるのは、こういう学習には必ず到達度を測るテストがセットだったりするね。世にある資格制度なんかも同じで、ある合格ラインや得点が設定されていて、それを越えるための知識や方法を覚えるというイメージだね。本来の学びの姿は生後まもない赤ちゃんをみていると知ることができる。赤ちゃんがいつのまにかハイハイできたり、言葉を話したりするのに必須なのはテストの合格点ではないし、何かの資格を得ることでもない。あくまで生きるということに関しての飽くなき好奇心であり、そのために体全部で触れて、感じて、驚いている。そうして一度言葉を発したら、言葉を発することができないふりはできるかもしれないけれど、もう話せなかった自分にはもどることができないね。そう自分自身がすっかり変わっていくことが学ぶということなんだ。
知識と知恵
いわゆる頭がいいとか悪いとかで語られるのは知識量であって経験量ではなかったりするね。知識をたくさん知っていることがテストの得点になり、そして社会でも優秀であるというお墨付きをもらうことが、初期教育プログラムとして社会に仕込まれている。赤ちゃんのときに持っていた本来の学ぶという姿勢は、損か得かで選択できるものにすり替わってしまっている。文系だの理系だのどっちに進学するかなんて高校生ぐらいで選ばされるけれど、こんなナンセンスでむしろ有害な将来の選択に対していまだに社会運動が起こって変えてしまえなんていうこともない。そうならないように幼少期から指導者の言いなりになることが良い子だという刷り込みが効いているみたいね。そんな良い子たちは受験突破のための知識は豊富だから、知識はもはや大人顔負けに叩き込まれている。昆虫や草木や魚などの種別を判別することはできるけれど、実際に触ったりまじまじと観察したりすることは生理的にイヤみたい。
自己と自我
知識を重んじる傾向は、おそらく物質的な肉体を軽んじているからだろうね。学校でも体育の授業はあるけれど、それも何らかの点数化の対象だから結局肉体を知るという知識よりなのかな。人体の仕組みを知ることが目的で、実際に解剖とか触れたりとかの体験授業はしないね。それをやると問題だと騒ぐ大人がたくさん量産されているから現代では難しいね。あとはスポーツのルールを覚えるとかぐらいかな。自己の肉体を頑丈のままにするには適切にメンテナンスしてあげないといけない。だから仏教では一見意味がわからない過酷な修行とかがセットだったりするね。肉体を鍛えることで正しい自我を見つめる余裕を生み出すのがその目的なんだろうけれど、苦行そのものには何の意味もないね。そういうと怒られちゃうかな。そうではなくて自己をまずはメンテナンスする。その上で自我を見つめる。そうして知恵ではなくて体験を通した学びによって自らが入れ替わるのが学びなんだよね。学んだかどうかは自分がどれほど変わったかにのみ表れるものだね。ということは学びとは結局のところ、楽しく生きる時間をできるだけ多くすることによって、さまざまな体験するうちに自分自身が知らず知らずのうちにバージョンアップすることなんだよ。知識はハウツーは参考書程度のものでしかないね。