あなたは誰のもの?
欲望
食べたり寝たりは本能だね。あとは子作りかな。いずれ自分が朽ち果てることを知ってか知らずかでどの生物も子を残すことが必須となっている。それに準えてヒトも動物だから同じ本能的欲望はあるだろうね。さらにヒトは強欲だから、それを仏教では煩悩と言ったりしてそれ以外の欲望は汚い心というか忌み嫌われがちに解釈されている。近代社会では物欲によって経済が発展したので、物欲は少なくとも本能的な一部として認められつつあるのかな。物欲が自然な欲求だと認められたなら、それに付随する欲望もそれほど悪くないとされているね。勉強を頑張って立身出世してお金持ちになって、そうなれば貧しい民に施しする自由と権利を手にすることができる。または生産手段の所有によって雇用が生まれ、人々の暮らしと少しの物欲によって経済が循環して総じて多くの人が豊かな生活を送ることが可能になる。むしろそれは忌み嫌うことではなくて社会のためになっていいことになっているね。
誰かのもの
根本的に生物的欲望と比べてヒトしか持ち得ないのが物欲だね。モノに対してそれを独り占めにしたいという欲望はどう考えても生きる過程においてそもそも生まれようもない。生存に全く関係がないからね。でも現代社会においていろんなモノは生活を豊かにしてくるのは確かだし今もまさに享受して暮らしている。いわゆる家事などの日常のやるべきことがとても楽ちんになったりする。そしてその余った時間をそれぞれが好きなことをして暮らせばいいからね。ま、寝ているだけなんだけれど。一度味わった文明はそれ以前の暮らしに戻ることをさせない。同時に経済の仕組みは文明の普及を促進したね。皆が欲しがるという前提から、大量生産によって高値の花だった製品がどんどん安価になって庶民でも手に届きやすくなったね。そしてそのことが生活レベルを1段階引き上げたわけで、やっぱり科学の進歩と文明の進化は人々の暮らしを豊かにすると今でも信じてやまないわけだね。
シェアリング
さらに最近ではヒトの欲望が進化して、所有欲や物欲が頭打ちになっているね。便利が便利を通り越して不便になっていたりする。例えば高級な洋服やカメラや車は無理して購入して所有しても、せいぜい年に数回使うぐらいしか用はない。だとすれば、必要な時に借りて使えばOKだね。昭和な時代は少しお金持ちになると、軽井沢や熱海や観光地に別荘を持つというのが夢だった。それも年に数日そこで過ごすためだけにね。そのためにわざわざ購入するしかなかったし、それを所有していることが社会的な地位として自慢できることだった。けれど、今はそんなことをしていると無駄だし地球に優しくないとか持続的開発目標がどうのこうのとか言われてしまう。必要な時に借りるだけのお金があればいいし、お金がなければお金のあるグループに紛れ込んで一緒に楽しめばいいだけだね。そういう意味ではヒトは本来の欲望に戻りつつあるね。でも一度おかしな欲望に取り憑かれてしまったので、完全には元に戻らないみたい。なんでもない大地に名前を書きまくったツケだね。