悪魔の心

日々

今しかない

過去の過ちを今更取り上げてその責任を追及しているね。過ちは誰にでもあって、叩けばホコリが出る人の方が多数派じゃないかな。もちろん、清廉潔白で聖人君子のような人ももちろんいるだろう。そういう人ばかりでないと特別なことをやってはいけないなんていう法律があるわけではないよね。極端な例を言うと、生命を食したものはすべて悪人とすれば、おそらく一人残らずそうなる。虫一匹たりとも殺したことがないなんていう人を連れてきなさいというレベルの議論になる。そこまで言うのはバカげているとほとんどの人が笑うね。なら、それ以外の過失について、現状捜査、起訴されているわけでもないことを取り立てて問題視するのはどうしてだろう。それは国際的な同義とかそれに応じた自らの立場とか、要するに他人の目を気にしてのことに過ぎないね。今流行りの忖度ってやつなのかな。

出る杭

政治家も含めて過去の過ちやスキャンダルを、有名人や影響力が大きくなればなるほど、必死に探し出して表面化させている正義の味方のつもりのマスコミ。それを助長する聴衆たる一般市民たち。そういう構図はいじめの構造と似ていると言ったらこれもまた炎上するのだろうね。いじめをなくすとかいじめを否定するのはいいとして、そのために多少のいじめもどきは致し方ないというのは自己矛盾に陥ってないかな。いや、正義のためなら悪が懲らしめられて再起不能になって、場合によっては生命が絶たれてしまってもそれは自業自得であってやむを得ない、という社会的合意が形成されるのかな。過ちは指摘されて当然だし、若気の至りであったことも謝罪すればいい。ほとんどの人が自らの過去の過ちを悔いているだろう。それを糧にして今を生きているだろう。もちろんそうやって謝れば免罪符のようにオールオッケーというわけではないことも実感としてあるね。被害者にとってはたったそれだけですむなんて、とてもじゃないけれど許せないという恨みつらみも残るだろう。でも、そう思っているのも今生まれているとするならば、今何かを変えることもできるはずだよね。

過去という今

随分も前のことをほじくり返して今糾弾されていると思っているけれど、それはまさに今の問題であることは間違いないね。だからそんな昔のことをというのは、言い換えると今ではないのだから、もう終わったことなんだから許されるだろう、という誤解から起きている。過去のことであってもその怒りは今起きているわけだから、今どうそれに対応するのかということが一番の課題として浮かび上がっているはずだね。もっといえばすべてが過去の思い出であって、今この瞬間というものは厳密にはどこにもない。過去のこととしてすっかり忘れていたことなのに今その問題が再燃したかのように見えるのは、過去というものを今に見ているからそうなる。ただ、それに正しく対応しないから、今だけお祭り騒ぎで引きずりおろして社会的に抹殺するという断罪をみんなでしている。そして、すぐにほとんど人がそれをまた忘れてしまうね。あなたもその一味に関わっていたのにね。そしてある日突然もしかしたらあなたにも同じようなことが起こることに気が付かずにね。