白黒

日々

グレー

現代社会は常に答えを求めている。だけど、曖昧な部分はそのままそのとおりに受け入れたらいい。特に日本ではそうだったね。しかしそれを許さない風潮があるね。夢の中か現実か、穏健派か急進派か、ミクロかマクロか、生きているか死んでいるか、白黒はっきりさせないと許されない時代だね。そうやってデジタルに白黒はっきりさせる文化は、特にグローバリゼーションによってもたらされて、合理化や効率化など近代化によってどんどん拡大していったわけだね。正しいのか間違っているのかが即座にわかる問題に関してはニンゲンはコンピュータに迫る勢いで未だに学習の中心となっている。幼少期から、問いには必ず答えがあるというルールが叩き込まれているね。そのことによってそういった処理能力は格段に身についているんだけれど、逆に答えのない問いについてはイライラしてシステムエラーを吐き出すようになってしまっている。それがキレるってやつかもね。

問いを問う

なんのために生きているのか、という問いには答えがない。答えがないのにも関わらず、問題集と同じように模範解答を常に探してしまう癖がついてしまっているね。目的を持つ、努力する、人の役に立つ、社会のためになる、なんていう模範解答はなんの苦労もなくスラスラ出てくる。これが社会の常識となって社会基盤が安定する。だから素晴らしいことだと教えられてきた。そこに疑問の余地もなくなってしまっている。生まれて死ぬまで一生懸命働いて、子育てして、やがて死ぬ。それが人生。素晴らしき人生はそういうものとすでに答えが用意されている。でもそんな人生はつまらないとその道から外れるとならず者として烙印を押されて、堅気の世界にはもどれない。人生の正解を誰かが決めていることに、なんの疑いもない方がおかしい、なんて気づいてしまうとただでは済まされない世の中ってわけだね。

命とは曖昧さ

曖昧な部分はそのまま曖昧にしておくことが生きることそのものだね。白黒はっきりさせるなんていう世界は、すでに死んだ世界とも言える。生きているからこそどっちつかずだし、複雑な因縁、すなわち関係性が連鎖している渦のなかにいるわけだね。あなたがあなたと思っているあなたは、実は確固たるあなたなんてどこにもなくて、その関係性でその時々に急ごしらえされたあなたしかいない。このことはあなた以外の出来事などにもすべて当てはまるね。ということは白黒はっきりさせる世界とはすでに生命が途絶えた世界でしか成立しないってことだよね。何か確固たるものを礎にして、それを基準に右か左か、白か黒かを峻別しようとしているんだけれど、そもそもの意識なんてものはあるのかないのかわからないぐらい不安定なもの。その意識が白黒つけないと気がすまないとつぶやいている。そんな世界が生命の世界なんだからね。