ポイントアップ
褒められたい
特に評価なんか気にしてないと言っても、だからといってぞんざいに扱われたり無視されたり排斥されたりという極端なことを是非よろしくと言っているわけではないよね。まぁ、評価は周りがすることだから、それをあなたがどうこうしようっていうことがそもそも無理だし、そこの罠にひっかかるととても苦しみが大きくなるから近寄らないってわけだね。そうやってどこか冷めた目で見ていられるなら、平然を保っているフリをするのも大丈夫かもしれない。そうは言っても一方では、そういう心境だからこそ少しのことで傷つくし、動揺するし、反省もしているね。常に自己を振り返ることで、今度は評価を気にしないということばかり気になってしまう。褒められたいという枠組みから脱却することはどうやら難しいみたいだね。
評価ポイント
わかりやすく合理的な評価ポイントは、現代社会の場合はおよそ3つに分かれている。かなり大雑把に見てみれば、現代の何かしらの評価ポイントは先の合理性と客観性というよくわかならい視点からみた公正平等なシステムを目指せば目指すほど同じようなものになってくるね。まず、最高評価されやすいのは0を1にするような人だね。無から有というかこれまでになかったものを生み出すと一番評価値が大きいことがほとんどだね。次は割とわかりやすい1を10にする人。ほとんどの優秀と呼ばれる人はこのタイプだね。ゼロからなにかを生み出すというのは憧れるんだけれどなかなかできないから、あるものを大きくスケールさせることで評価を得て地位と名誉を確立する人だね。この2つしかない。そしてほとんどの人が10を10のまま保つということに寄与して、不断の努力をしているのにも関わらず、ここはそれほど評価されずプラスマイナスゼロとみなされてしまう。要するに評価ポイントはゼロと言っているのと同じことだね。でも組織を支えているのはこうした人々によることは紛れもない事実だね。このベースの上で誰が優秀だとか偉いとかが成立しているんだよ。
すべて罠
そもそも評価ってなんのために存在しているのだろうね。そして誰が誰を評価しているのかをしっかり見てみるといい。会社では上司が部下を評価している。学校では先生が生徒を評価している。夫婦では妻が夫を評価している。兄弟では兄が弟を評価している。こうやって言葉化してみると違和感を感じないかな。例えば社長が社員を評価するのは、給料という報酬で応えるからだと思っているね。それがいつしか当たり前と思っている。あなたが社長であるならなおのことかもしれない。でも、たとえばあなたよりも優秀だと評価した場合はどうする?あなたは社長をやめて地位を譲るかな?それと同時にあなたはそこからいなくならなければ上下関係は残ってしまうね。雇われ上司なんかはまずそういうことはありえない。売上やノルマが達成したからといって誰が何の得をしているのだろう。教え子の点数が満点だからといって先生にメリットもデメリットもない、ましては先生が出題した問題がわかったところでそれが何になるのか。はてさて、あなたはずっと褒められたいと思っているけれど、一体それは誰からなんのために褒められたいのかな?