集うなという時代

日々

合理的

学校の授業なんて今や無駄なものの一つとして槍玉に挙げられることが多いね。能力もスピードも全く違う子どもたちを集めて、同じことをだいたい平均ぐらいに合わせて進めている。もうわかりきっている子はつまらないし、わからない子はペースが早すぎるという問題が起こるね。今はスマホがあるからそれぞれの理解度やスピードに合わせた授業を受けることが可能になっている。もちろん習った知識を駆使して答えのない問題を考えるということは意義があるね。でも皆で顔を合わせて同じことをする経験が大切だとか、そこでの協調性を学ぶとか、そういう集団行動ができるようになることが社会の安定に貢献するという意義があると思っている大人がいるから、随分久しく問題点を指摘されていてもいつまでも変わる気配さえないね。集団で同じ場所に集められるということは異常事態だと考える力すら奪っているかもしれないね。

暴力教師

だからこそ、それこそ信じられないと思うが暴力教師が普通にいたし、教室で裁判まがいなことをしたり、正直に言わないとクラス全体の連帯責任とかで監禁まがいのことをしたりする。毒はほどほどだと薬になったりするから、毒が毒を制していた状態なのかもしれないね。そういう経験があって今の社会が構成されているんだよ。だから今の子どもたちが社会を構成するようになればずいぶんと変わるだろうと期待されている。歴史を紐解けばすぐにわかることだけれど、今の学校制度は明治時代から制定されたものに過ぎないし、もともとは優秀な軍人を輩出するための教育機関でありその方法論も集団行動、勤勉、規律遵守ということだからね。それが戦後産業社会となって随分生かされたというわけだよ。今会社に朝決められた時間に出社して定時に帰ることができず1時間ぐらいはサービス残業することが普通になってたりする。それが当たり前となっているのがどんどん崩壊しているってわけだね。暴力教師なんて密室の教室では当然頻繁に起こる現象なんだけれど、それを良しとして育ってきた親からするとそこになんの問題があるのかはわかるはずがない。

集う

歴史的に人が一箇所に集まり、同じ思想を共有したりすることを為政者はとても嫌うね。今は新型ウィルスのせいでそうなりにくい状況が続いている。新興宗教しかり、政治結社しかり、労働組合しかり、法律では団結すること自体は禁じられてはいないけれど、マークされる対象ではあるようだね。一揆や反乱の歴史は体制批判の暴力化の歴史だね。誰が一番かを狭い範囲で競争させると全体のレベルが上がることが今日よく知られている。集団になるとどんな行動を取るかというのもすべては軍人をまとめるための研究であったりする。心理学や道徳も集団行動に適した人を教育で生み出すにはどうするのがいいかというところから来ている。まだ社会を構成することもなくバンドで暮らしていた狩猟採集時代でも、仲間はずれは死を意味していた。あなたのルーツはそこにある。でも時代は自己責任を御旗に掲げる個人主義だね。そういうことを知ると、そこの折り合いをつけられるから幸せになれるよ。