特別なあなた
量か質か
計測できるものとそうでないものがあるね。長さとか重さとか単位があるものはモノサシがあるので計測可能となる。一方で辛さとか悲しみとか嬉しさとか楽しみなんかはどうだろう。量があるようでないようでよくわかってない。けれど感覚的にはぼんやりとした大きさをそこに見ていたりするね。たとえばあなたは多大なる悲しみを背負って生きている、とかね。ただ具体的にどれぐらいの量なのか、大きさなのかは表そうと思ってもせいぜい両手いっぱいに広げて「このぐらい」と表現するのが関の山だね。こういうのは一般的に質と呼ぶけれど、なぜ量で表そうとするかというとやっぱり何らかのモノサシがあると考えているからだね。一番身近に悲しみや辛さを測っているのが刑法などの法律だね。人を怪我させたらこれぐらいの刑罰というルールだね。量刑相場とか呼ばれたりして、辛さ悲しさをなんとか刑罰の重さで反映しようとしている。単純に大きさや重さを測るのと違って、その量が適切かどうかは永遠に決断が下せないね。
不幸度合い
つらい状況にある人をみてあなたはそこにシンパシーを感じる。ニンゲンにはそういう共感の能力が高いと言われている。子が親を真似たり、感情が周りの人に伝播したりするからこそ共同体としてのつながりが生まれる仕組みだったりする。そこで本来なら身近につらい状況にある人を見かけたら放っておくわけにはいかないはずだね。人は快楽を好む本質があるからこそ、不快な状況を取り除こうとするようだね。でもそこで現代風な人の解釈が邪魔をする。ここで手を貸せば後でいいことがあるかなとか、手を差し伸べられても借りは作りたくないとか、どうでもいい思考をするのもニンゲンの能力の高さからそうなるのだろう。基本人の世話になんかならないとか変な信条を持っているのも、自己責任という刷り込みがどうやらうまく効果を発揮しているんだろう。
VIPな俺様
それでも誰の助けも借りず一匹狼であなたは生きていると結構本気で思い込んでいる。さらに愚かなことにあなたは特別な一人だと思っている。あなたは実は何人もいるんだよと言われると混乱するだろう。でも事実自然を見つめたらすぐにわかることだね。あなたは複数の細胞からできていて、体内外問わず無数の細菌やウィルス、微生物とともに共生している。両手にアルコールをどれほど吹きかけても無菌状態になれるわけがない。だってあなたは細菌の要塞のようなものなのだからね。料理に髪の毛が入っているだけで気持ち悪いとか思っているし、足元のセミの亡骸を見てビクビクしている。自分の髪の毛が抜けて床に落ちたらあなたの髪の毛という称号が取り払われて汚物として見ている。シンプルだけれど重要な実態に向き合わずに観念ばかりが暴走しているね。他人をバイ菌扱いするのもおかしな話なんだけれど、残念ながら虫を汚物としてみている感覚と、人をバイ菌扱いする感覚は同じだね。あなたという特別清潔な存在が暴走している。そんなあなたは自然界を探してもどこにもいないんだけれどね。どこにもいないけれど観念だけがここにいるから俺様なのかもしれないね。