お茶しない?
ひどい言葉
ひどい言葉をかけられてあなたはとても落ち込んでいる。それを気にしないようにと思えば思うほど逆にくっきりと浮かび上がってしまうね。友人に相談すれば気にするなとひとことアドバイスをもらったところで、そんなことはすでに知っているね。そういうときにはどうすればいいのかといえば、気になるならとことん気にすればいいんだよ。ただ、ひどい言葉をかけられたということをできれば感情的は判断を剥がしていってそれだけにできればそれにこしたことがないね。あなたの世界では誰かがいつも何かしらのことを常に話している。あなたの知っている人も知らない人もいろんなことを話している。たまたまあなたはひどいと感じる言葉をそこで聞いたんだけれど、それは本当にあなたに向けての言葉だったのかな。そうならばどうしてその言葉をその人は投げかけたのかな。そしてひどいと思っているあなたはそれをどうしてひどいと思っているのかな。そうやって分解してみるのも手だね。ただそんなふうに冷静にはできないなら、無理にしなくてもいいんだよ。
苦しみは言葉の中に
言葉の暴力というふうに言われているね。ペンは剣より強しとか、とにかく今は情報社会だからますます言葉は人を圧倒するパワーを持っている。ひどい言葉で罵倒されたらひどく傷ついてしまうのはあなただけではない。そうやって同じように言葉で傷つく人たちが、同じように弱い人たちに向けて言葉の刃を向けてしまっている。そうやって見るとどっちも楽しそうではないね。言葉はとてもパワーを持っているのは言葉の世界で生きているからだね。もはやあなたの世界そのものなんだよ。だから何気ないその呪いの言葉に苦しめられている。言葉の中にしか苦しみはない。世界が言葉でできているとすれば世界は苦しみでできているとも言えるね。
愛は自然の中に
一方で愛にあふれる世界には言葉はあまり重要ではない。むしろ一言も話すことなんてない一日も珍しくないかもしれない。長年寄り添った老夫婦の会話なんてたわいのないものばかりでそれほど会話がないことに気づくね。会話しなくてもわかりあっている。わかりあっているという言葉が安っぽく思えるほどにね。すべては行為の中から溢れ出ているね。それをおそらく阿吽の呼吸と言ったんだろう。朝起きてお茶を入れて二人で飲む。とても日常で何一つ刺激的な楽しみや享楽的な面白みがない行為に愛が満ちている。なぜかそこに愛を見つけられるのは、あなたが愛そのものだからだよ。嫌なことを忘れる努力は言葉の世界だから無理しなくていい。単にお茶を飲んで掃除して朝の自然を感じてみよう。行動の中にだけ愛があるから、苦しいときは何かいつもしていることをいつものようにするといいね。おいしいお茶の入れ方をすでにあなたは手にしている。あなたが入れたとびっきりおいしいお茶を一緒に飲みたいんだけれど、それどころじゃないかな?