無我と無私
自然
なすがままに自然に生きるってことが現代社会ではとても難しい。だからこそ生きることに息苦しく感じたりする人が多いね。でもそれは社会に適合しようと不自然にもがいているからだね。野に咲く花のように自然に咲き誇ればいいだけのことを、場の空気を読んで咲こうか咲かまいかタイミングを測っているからそうなる。ちょっと自分の悩みばかりに注目するのではなく、そういうときはやるべきことをやっているだけの人を見つけてみよう。腹が減ったら飯を食う、汚れた軒先を掃除する、眠くなったら横になって寝る、そんな生き方をしていることがわかるね。誰かの目を気にする隙なんてこれっぽっちもそこにないからこそ、強い個性と生命力をそこに感じられるよ。
自我
悩みに悩んでいるときは、特殊な考え方をしている場合だということに気づく。それはあなたの脳があなたを特別視してあなたが社会的に有利になるようにしようとあれこれと作戦を練っているときが多いね。あなたが主語になってしまうと、あなたがよく見られるにはどうする?あなたが悪く見られないためにはどうする?あなたが周りから好かれるにはどうする?という思考回路になっている。それではいつまでたっても悩みは増幅するだけで一向に解消したりしない。なぜなら悩みはあなたというスペシャルな存在を自然に認めさせようとしているからだね。自然とあなたが対峙してあなたに勝ち目がある何かを見つけようとしていい方法が果たして見つかるだろうか。
無為
そうであるならそうだ。特に深い思慮もなく掃除をする。一休みするためにお茶を入れて飲む。そこにあなたはいない。誰かが困っていたら助けるという行為は現代社会では偽善者とか呼ばれるし、利己的遺伝子論解釈ではその方が結局あなたが得をするからだとか、そんなふうに分析している。人は社会的な評価からは逃れられないしそれが本能として刻み込まれているとして陰鬱な結論になってしまっているね。人以外に目を向けると花はそこで咲いている。人から見ればどうしてそこで咲いているのか。そんなところで咲いているのか。そう思ってみてしまうね。あなたは花をあなたになぞらえて見ている。もっとじっと見てみよう。花はそこでしっかりと咲いている。それには悪巧みも自己中な思惑もなくただそこで咲いている。そういう生き方ができればあなたももっと楽になるかもしれないね。