実は見えていない

日々

あたりはずれ

じっとしていても、季節が変わると景色も変わる。一念発起して旅行に行けば、見知らぬ土地の景色が目の前に広がるね。だから普段見ているのと違う景色を探し求めて旅に出ることが好きな方は多い。でも現代ではちょっと違った意味を帯びているね。情報化社会なのですでにテレビやネットで行く場所の景色はほとんど知っている。でもやっぱり是非実際に見てみたいと思って、それからでかけているね。それでようやくたどり着いたときに、思っていた以上の感動がそこに広がるってわけだ。ああ、これが夢にまで見た絶景か、と感動することができる。でも他方でがっかりすることもあるね。当日はあいにくの天候で雲がかかって何も見えないとか、そもそも絶景ポイントまで何らかの障害でたどり着けないとか。せっかくここまで足を運んだのに、と悔しい思いでまさに後ろ髪ひかれつつその場を離れることもある。それも旅の一つの醍醐味でもあって、まさに奇跡的な晴天に恵まれて普段以上の素晴らしい体験をすることもあるし、その逆もあるという自然の摂理だね。

すでに知っている

江戸時代ぐらいから旅行記というか旅行ガイドが庶民の間に徐々に広がっていたらしい。行ったこともない場所の景色が絵で見られて、その場所の名物も載っているような情報誌の始まりだね。それから現代まではほとんど同じで、旅に出るときは必ず事前準備として資料や地図やご当地グルメなんかをチェックしてから行くことが多い。そして事前に組み立てたその予定どおりに首尾よくいけば良い旅行だったということになるのかな。個人的には観光地やご当地グルメなどは全く興味がなくなってしまった。いつの頃からかは覚えていないけれど、観光地はたいていはとても混み合っていることが多いのでむしろ近づかないようにしている。おそらくそんなやつはマイノリティだろうけれど、それよりも思わぬアクシデントや何気ない景色を楽しむことの方が多いね。もちろん写真やテレビで見るそれよりも、実際に見るという体験は貴重な体験ではあると思うけれど、それは日常の何気ない景色と出会うことと同じことだと思っているからなんだ。

見たいものしか見えない

そもそも同じ場所で同じ景色を眺めていたとしても、その帰りにカメラやスマホで撮った動画や写真を見せ合いっこすると、見ているところがぜんぜん違うことに驚くね。そこ気にする?というような写真や、どうしてこんなところを撮ったのか理解に苦しむ動画があったりとかで実に興味深い。要するにそれぞれが見たいものだけが目の前に現れているということだね。ということは、すべての日常でさえも感じ方や見ているポイントが全く違うので、なんの変哲もない退屈な日常風景と言っても実は全く違って、その違いを見るだけでもワクワクするね。だからお誂えのバスツアーに行かなくても同じ体験が日常でも可能だということだね。つまりは普段見ている風景には情報量が膨大すぎるんだよ。そこから見たいものだけにして情報を削ぎ落としている。スマホのカメラ機能はどんどん高画質、高精細な方向へ進化してそれをありがたがっているけれど、本当の進化はそこから見たいものだけにしてくれる機能だね。デフォルメされたアニメや漫画がそれを可能にしてくれるし、その世界が実はあなたの脳内に取捨選択された風景だということだね。見たいものだけ見ているそれを、さらに他に伝えようとするのが表現であり、おそらくは芸術と呼ばれるものだね。共通しているところは情報を削ぎ落とすところにポイントがあるってことだね。