流れに身を任せて
受け流す
例えば天の恵みの雨を一粒一粒あなたは集めたりしないね。水が飲みたければすでに溜まっているところか、流れているところへ向かうはず。でもなんだかうまく行かないときは一粒一粒を集めようとしてもがいていることが多い。そうしているあなたは方法がそれしかないと思いこんで必死になっているんだけれど、うまく水を飲むことが出来ずにもやもやしている姿がそこにある。あなたは降ってくる天ばかり見上げて、足元で溜まっている水たまりを踏み荒らしていることに気が付かない。だからこそ、そういう苦しみを味わっているときがチャンスだと言われているね。何もかもうまくいかないときの裏側には、もうすでにそれらを解決する術があなたの足元に転がっているからだよ。でもあなたはそれに全く気づく気配がない。そういう状態だから見ているところを変えてみることが気づくチャンスだね。
独り占め
たまたまそこに気づいたあなたは、足元に目をやった。するとそこには水たまりがあってそれがずっと流れている先を見る。その先をずっと追いかけてみると清流がそこにあったわけだ。これであなたは水を求めて苦しむことがなくなったわけだ。それまでとてもつらい思いをしてきたがために、そのことを誰にも渡したくないね。それで独り占めにしようと秘密にしていた。すると今度は美味しい果実がなる木を探し求めて広大な森林をさまよい歩くことになる。美味しい果実はすでに他の動物が在り処を教えてくれるというのにね。そうやって苦しみから逃れることができず、何かをようやく手にした気になったところで、また次々と別のなにかが不足するようになる。なぜならあなたは自然の流れにわざわざ逆行して生きているからだね。そこにあるものを独り占めしないで、広く分け与えることで十分に生きていけるはずなのに、誰かに明け渡すことを嫌だと思うと同時に自然の恵みの流れを遮断することに躍起になって苦労している。その流れを遮るのはとてもじゃないけれどあなた一人のエネルギーでは全く歯が立たないからね。
あなたは誰?
幸せになりたいと思っているのは誰だろう。あなたは当然あなた自身であることに疑いを持たないね。ではあなたは一体どこの誰だろうか。いやあなたはあなただと答えるしかないね。そして不幸よりも幸せが良いと思っているけれど、それはどうしてだろうね。さらに言えば幸せだとか不幸だとかは誰が決めていることだろうか。それはあなただね。ではあなたはどこにいる誰なの?というと堂々巡りに陥るわけだ。そこはどうやっても言葉で論理的に説明することがとても困難だね。そもそも言葉はあなたとなにかを切り取る道具だから、のこぎりでのこぎりを切るような感じになって適したものではないからだね。ということは思考で生まれるあなたがそこにいて、思考しているあなたがそこにいて、どうも説明が難しいとなるのは当然だね。そしてとっても幸せな一時は、実はあなたがどこにもいなくなっている。幸せを感じたいあなたなのに、あなたがいなくなったときが至福なときだとはなんとも皮肉なものだね。