食えるかどうか

日々

いつの間にかうまくやらないといけないと思いこんでいる。失敗はかっこ悪いと思っている。成功したいと常に願っている。そうして成功すればすべての幸せがそこにあると信じている。こういう考えがあなたの心を支配し続けて、実はどうでもいいことに関してあなたを悩ませている。人生は一度しかない。だから挑戦し続けてもいいし、ダラダラ過ごしてもいい。そこに良い悪いなんてないしかっこいいとかっこ悪いとかはあなたがそれを決めている。したがって他人からすればどうでもいいこと。だからといってこだわりを持つなと言っているわけではなくて、そうであるからこそ自分なりのルールや枠組みをしっかりと持つことで自由に動き回ることができる範囲が広くなるね。なんのルールもなく砂漠の真ん中にいてもどこへどういっていいかを考えているだけで日が暮れてしまう。そうではなくて、太陽が登ったらそのときに向いている方向へ1000歩ずつ前進するというルールを決めておけば、目覚めた後の行動は自然にルーティンになる。よく成功するための習慣とかいうビジネス本があるけれど、内容としてはそんなことだね。読まなくてもわかっている人のほうが多いだろうと思うよ。

責任とれるのか

失敗したらどう責任を取るのかと詰め寄る人がいる。ならあなたならいつも責任をどうしているのか聞いてみるといいね。そんな問いは悪魔の問いであって、責任というのは人間が生み出した観念でしかない。ということは実際にあるものでも見えるものでもない空想の産物なんだよ。それに実行を伴う言葉、動詞とか言ったりするけれどそれを組み合わせて困らせるというのが主たる目的でしかないね。平和を維持するとか、みんな仲良くする、とかも同じだね。観念であって平和とは何をもって平和と呼ぶのかという議論がまず巻き起こってもうてんやわんやになる。ということは目の前のみかんをあなたは食べるのか、食べないのかという自然現象ではなくて、ここにないものを議論したところで決着がつくわけがもともとないものだね。自由、平等、博愛なんかもそう。何を持って自由と呼ぶのか、平等とは残酷さなのか、博愛とは究極的な自己愛なのか、議論すれども決着がつくわけがない。だって目の前にこれが平等ですなんて持ってこれるものではないからね。

他人を生きない

他人の目や評価なんて気にしてはいけないという真意は、評価なんてこの世にそもそも存在しないからだね。評価も観念だとすぐに見破れるかな。りんごは実際に食ってみればりんごかどうかわかるね。みかんもそう。でも評価は食えないね。食えないものは気にしないでいいんだよ。食って美味しいは感想だけれども、美味しいそのものは食えないから気にしない。そんな自己勝手ルールを決めることをオススメするよ。え?そんな馬鹿げたルールなんて守っても無駄だって?なら、高尚なあなたの生き様を守るとどれほど素晴らしい人生になるのだろうか。もちろんオススメだけで無理強いなんてしないよ。でも食えないものは気にしないというのとそれほど変わらないくだらなさがあると思うよ。くだらないことをするのが人生の目的なんだからそういう意味ではどっこいどっこいでいい勝負じゃないかな。あらま、そんなに怒らなくてもいいじゃない。人生の目的は遊びなんだし。