ガチャガチャ
親ガチャ
最近SNSでは「親ガチャ」という言葉が行き交っているね。その意味するところは子供は親を選べないから生まれた環境でその人の人生のほとんどが決まってしまう、といったところかな。だから親ガチャで勝ち組の家庭で育てば高学歴でいい会社に就職しまともな人生を送ることができる確率が高くなる。一方でハズレであったらまともに高等教育を受けることも出来ず、地元の会社や親の家業を継ぐことになって低所得な人生を生きることになるらしい。昨今は何でも理屈で説明しないと気がすまない。そしてそれを改めて文字にして書いてみると、もう目も当てれない呪いの言葉の塊に見えるね。高学歴、高所得、豊かな人生、これらの言葉を誰にでもわかるように説明できる人はいるのかな。高学歴とは日本では東大かな。世界ではまた違うね。よっぽど良いとされている大学を3つも4つも行っている人もいるけれど、その人はまともな人生を送っているのだろうか。そもそもまともな人生とは何を意味するのか。よくわからないことを常識化して定義づけているようなふりをしているけれど、きちんと説明するには人それぞれの部分が多いね。
多様化
多様化という言葉も人が理屈で考えた観念であって、多様化という現象が何であるかをはっきりと目の前に差し示すことはできないし、体験することもできない。個性という言葉もそうだね。個性とはそれぞれの人が持つ良い特性のことを指すのかな。そんなもの誰が測って決められるのだろう?そんなモノサシがあるようでないのにね。だからなんでもかんでも個性的だねとしか言えなくなるし、そう言っておけば当たり障りないと思っているだけだとしたらなんて内容のない言葉なんだろう。環境も大切だと言って、なぜか人は環境は自分とは違うスケールの大きいなにかだと思いこんでいるけれど、生命体はまさに体内に環境をそのまま持ち込んでいる構造だね。だから環境問題といえば自らの問題そのものだということに気が付かない。もっといえば環境なんていう言葉も観念上のものでしかないから、自然界から環境だけを切り取って、ほらこれだよ、と見せられないね。だから環境がどうあるべきかという議論には終わりがない。だってそんなものそもそも無いものだから永遠と結論なんて出るわけがない。
知ってるつもり
社会や人を理屈で考えるためには、数値化したデータが必要だからなんでもかんでも測ってわかったつもりだね。クラスの平均点は59点だから今回のテストのできはまずまずとか言っている。25歳男性の平均身長は男は172センチとか計算しているけれど、平均という言葉も注意してないとね。平均もあるようでない架空の観念だね。いやいや平均は計算したらすぐに答えが出るから現実だと言うけれど、平均を知ったところでその平均にあてはまる人は何人いるのかな。平均より多いとどうなる?少ないとどうなる?それこそが個性で多様性じゃないのかな。なのに、一方で平均を元に分析しているなんて矛盾も甚だしい。けれど現代人はまったくもってそのことに気がついてない。気がついてないのはそれですべてをわかったつもりになっているからだね。何も知らないのに知り尽くしたと思い込むことができるのは人だけだ。そういう意味では生物界の中でも特異な才能を持っているとも言える。親ガチャという言葉がなんとなくそうなんだと浸透し、ついで国ガチャとか性別ガチャとかいくらでも生み出せる言葉なんて、そもそも本質を含んでいない観念上の言葉で取るに足りない。SNSにはそういう類に言葉が流れてくるから、そういうのはまさに右から左に聞き流せばいいよ。