言行不一致
メリット
良いことがいっぱいあるから、気が乗らないだろうけれどこれに協力してくれ、なんて言われてあなたはどうするよ?良いことは本当に良いことなのかとか、どうしてあなたの協力が必要なのかとかを疑いだしたらキリがないね。その裏を考えてしまって、あなたはなぜかその裏の裏を考えて悩んでいる。言葉通りに受け止めるなんてバカがやることだと誰かに教わって以来、ずっとそういう癖がつくようになった。言葉を言葉通りに受け止められないなんて、一体どういう世界なんだろうね。だから世を儚んでしまう人が増えているのかな。逆に考えるとそれだけ言葉はパワーを秘めたものなんだよね。ということは気のおけない友人との何気ない会話から、ビジネス上の知らない人に対する無機質で合理的なやりとりはエネルギーのやりとりと同じことなのかもしれない。そうやって一日何らかのエネルギーの変動をずっと体験することが「言葉」なのかもしれないね。
知らない言葉
だから知っていて使える言葉の数が増えるほどあなたの世界は大きく変わっていくね。エネルギーが言葉によって見える化するともいえる。今まで何もなかったところに新しい言葉を知った瞬間になにかが見えるようになる。知らない言葉がたくさんあった世界は見渡す範囲がコンパクトにまとまっていたけれど、様々な言葉を知るとその奥行や幅がどんどん広がっていくね。さらに言葉と言葉の関係性がより多様化して複雑化していく。そのことによって物事の表面を指でなぞっていた感触から、手のひらでその質感や温度まで感じられるようになりびっくりすることがあるね。その瞬間にあなたのこれはこういうものという知識や経験の分類体系が大きく書き換わる。それを覚醒とか達観とか言うようだけれど、知識を持っているだけの状態に対してはそうは言わないね。知っていることとやれることは違うっていう壁がそこにある。知識としての世界と体験としての世界は大きな壁で分け隔てられているというわけだね。
体験の裏の裏
確かに百の言葉を知るより、実体験があなたを変えることがある。触ってみると意外に柔らかいものとか、簡単そうに見えていたことを真似てやってみると実際はとても難しかったりとか、意識ではもっと速く走っているつもりだけれどタイムを測ってみれば実は遅い方だったりとかだね。確かに想定した行為と結果にはズレが生じているけれども、あなたはそれを表現する言葉をすでに知っているし、実はそれほど驚いてもいないね。それを含めての「体験」という言葉だし、その含まれるエネルギーそのものということをすでに体験し理解している。言葉が抽象化も具体化もいったりきたりできる魔法のツールのように見えるのも、結局は言葉のやりとりがまさにエネルギーのやりとりと同じだからなんだろう。あなたはいつも休むことなく、酸素を吸って二酸化炭素を吐き出している。そしてその呼吸をしばらくしかとめることができない。その二酸化炭素を植物が光合成の材料にしてデンプンに変えてくれる。それをあなたは食べてまた二酸化炭素を出している。その循環するなにかと同じような流れを言葉の向こうに感じているね。だから言葉の持つパワーもさることながら、その表面だけでなくエネルギーの行き来をそこに見出しているから、言葉にならない裏の裏をあなたの真ん中で感じている。そりゃ言っていることとやっていることにズレができるってわけだね。