闇を照らすな

日々

正義を貫く

正義とか正しさというのは絶対値があるようでない。だから時代背景に大きく揺さぶられてきたね。普遍的な正しさを求めるあまりにこの国では死刑制度がまだ根強く支持されていたりする。人を殺めることが絶対的・普遍的な悪ではないということを多くの人が判断しているということになるね。戦時下のように、時にはお国のため、平穏な生活のためにはやむを得ない場合もあるということをぼんやりと認めているということと同じだね。それに気づかず正義だと信じている人たちが、殺人の罪を裁いていたりするわけだから、もはや何を信じたらいいのかわからないね。傍観者であるそんなあなたも無意識にその国家機関が殺人を執行することに加担していることになる。あなたもわたしもみんな共犯ということになる。

悪を駆逐する

悪もそうだね。悪は徹底的に対峙して根絶しなければならないと子どもたちに教えている。その教えが許してはいけないという義務感が生まれ、それによって怒りを発生させる。その怒りは正義感という偏見から来ている。それで良かれと思って悪を退治するのが桃太郎だね。悪い鬼として物語で描かれている。もちろん、現代に残る桃太郎では鬼は懲らしめられているだけで殺されてしまうわけではない。鬼が自ら反省して謝っているね。子ども用の道徳観を身につけるお話で凄惨な殺戮の描写があってはならぬとの配慮からかな。でもその正義感が後に恨み妬み嫉妬に変わってしまわないようなフォローはないね。

観念支配

自然に触れたほうがいいと思うのはこういうところだね。幼い頃から観念で物事を考える癖がついてしまうから、偏った正義にとらわれて苦しい人生を過ごすことになる。自然はまさにランダムな世界であり、多様性というなんだかよくわからない言葉なんて使う必要もないそれを体験できる場が目の前に広がっている。それをしっかりと見つめることがまさに生きることそのもの。現代人からみて酷さも凄惨さも感じる場面もあるかもしれないけれど、動物の世界にはそもそも正義も悪もそこにはないね。虫をついばむ鳥を恨んだところで、鳥にはなんのことかさっぱり身に覚えがないってわけだよ。人は動物を食べる。それを忌み嫌う観念を生み出すのは「命は大切」という教えだね。かけがえのない命を殺めて食べるとは狂気の沙汰だと本気で思ってしまう。だから代わりに野菜を食べると主張するけれど、結局は体調が悪くなってやめたりするね。そういう人は実際に農業を体験すればいいね。どれほどの「害虫駆除」が必要かという体験もできるしね。虫は気持ち悪いから大量に殺してもいいという勝手な判断も人だからできる。命はどこにあるかということも実はいい加減に考えているんだよ。都合がいいように正義と悪は使われてきた。その方が多くの人が安心して暮らせるからという理由だけのためにね。だからそれを金科玉条とかにしてはいけないのがルールだね。闇を照らして明るくすればまたどこかに闇ができるのと同じだね。