それってビジネス?
この人を信じる
親友だから信じるとか夫婦だから信じるとか親子だから信じるとか固い絆みたいなものには要注意だね。この人を信じてついていこうと思います、なんて言われてまんざらでもない気持ちでいるかもしれないけれど、それは恋愛や絆が正義や勇気とつながるアニメやドラマの見過ぎだね。私が信じたあなたはそんな人じゃないなんて、とても恐ろしいあなたのエゴがそこに横たわっている。むしろむき出しで露骨で一方的な凄まじいほどのエゴなんだけれど、それが信頼とか絆とか恋愛とかというオブラートにくるまれてキラキラ輝いて見えるように演出されているからあなたはそれに気がつかない。むしろ良いことだと思いこんでいたりする。何はともあれ、そんな風に誰かを信じてはいけないということだけは肝に銘じておこう。信じるということは、そもそも何があってもそれを貫くという柔軟性を捨てる行為。そしてそれはあなたがそのように努力するということがもともとの本質だね。
あなたの理想
あなたのおメガネに叶った人はとっても素敵な人だろう。でも実際あなたの目の前にいるその人はそうではない。あなたは残酷にもその人にあなたの理想の人という台本を渡してこの通りにしろと命令しているようなものだね。残念ながらあなたは他人を理解する力はゼロだ。他人がもし理解できるならそんな初歩的なミスをするわけがない。しかも、あなたの理想の人はあなた自身もそこから排除されている。つまりは相手には押し付けるけれど自らにはそれを課さないという歪んだ構造にある。だから、仮に台本を読み解く力が相手にあったとしても、いずれやってられないと匙を投げる瞬間がくる。あなただけ素敵な思いとあなただけなんの台本も演じずにすむから、結局は行き違いになるのは必至だね。
地獄の先まで
信じるという好意によってあなたは相手に見返りを求めているね。無条件の愛は親子の仲だと言われている。本当だろうか。無条件の愛が貫き通せるなら我が子にあなたの思い通りの台本を渡しそれを演じさせることはしないはずだね。そっと胸に手を当てて考えてみよう。我が子がしっかりと生きていることだけを支えるのが親であって、しかも子が立派に独り立ちすれば子のことを忘れなければならない。いつまでも親子関係だとかいうのも生物界であり得ない。おそらく戸籍で民衆を管理するために家系図や血筋を重視した事務管理上のものでしかない。それは農耕定住生活が始まって年貢を取り立てるための都合で生まれたものだね。だからといってずっと誰も信じられずに疑い続けるのも自然ではない。本来はあなたが勝手に信じていたらよかっただけのことを、取り立ててメディアは煽動して商売にしているから気をつけてねという話だね。商売には出入りが発生する。それが養育費であったり慰謝料であったり親権であったりする。それらと信じることはどこに関連があるというのか。一点の曇りなくきちんと我が子と話ができる親になれば大丈夫だね。すべては対等であることが最初の第一歩だよ。