現物合わせ
不自然な自然
自然体でいられると一番安らぐみたいね。社会性を身に着けたふりをして世の中に参加しているけれど、実はそうではないね。もう他人が自分の思い通りになるわけがないとわかっていても、どうしてそこまで勝手に振る舞えるのかと内心では腸煮えくり返っている。けれどそれをぐっとこらえて、苦笑いしているあなたがそこにいる。そこで感情を顕にしたところでろくな事がないことを知っているからだね。そんな面倒なことになるなら、ここはぐっと我慢した方がトータルのあなたの心の損失はお得になるからそうしている。これを社会性というのなら、この世は壮大な我慢大会となる。そりゃそんなゲームとわかれば早々にリタイヤしたくなる気持ちもわからないではないね。でも、ひょうひょうとやり過ごしている人がいる。あなたとそれほど変わらないはずなのに、心底笑って過ごしている。これは一体どういうことだろうと気がついたらそれが最初の扉の前だよ。
無理しない
我慢とはなにか。それはあなたの思い通りにならないことに対する現実を受け止めるということだね。本来誰しも欲望があって、こうあるべき、こうなってほしい、こうあればいいな、という理想の世の中を構築する材料となっている。それらのパーツを当てはめようとするんだけれど、どれもこれもうまくはまらないね。そりゃ実物を見ずしてサイズを理想に合わせて切った柱みたいなもので、どこに持っていってもぴったり合うわけがない。長過ぎたり短すぎたりとなかなかうまくいかないね。それが惜しければ惜しいほどイライラするね。全くはまらないのなら諦めも早い。そうやって後もう少しのところでいつもあなたは煮え湯を飲まされている。どうやら良いことをするには悪いことを受け入れないといけないらしいね。柱が足りなければ何かでかさ増しすればいいし、長過ぎたら迷わず切ってしまえばいい。それができるその人はずっと笑って過ごしている。理想のなにかを大切になんて全くしていないようだね。あなたはそれができないのは、あなたの理想を切った貼ったをしたくはないからだよ。
理想という幻想
あなたの心に浮かぶ理想はどんどん突き詰めればいい。そこもあなたの欲望の塊だからそれでいい。ただしそこで生まれた何もかもは目の前の世の中に当てはめる前に継ぎ足したり削ったり、時にはそうとっかえしなければならないこともあるね。それでちょっと長さがあってないのにぴったりあてはまったということにして、中途半端にそのままにするものだから後で大きく崩れてしまう。だから我慢はせずにどんどん当てはめれば良くて、そして足りなければ足せばいいだけ。それができるとすべてが我慢ではなくなる。むしろ足したり削ったりをすることでだんだん当てずっぽうで寸法がなんとなくわかるようになってくる。それがからくりだね。我慢大会を笑顔で続けるのは苦しい。だから我慢もほどほどにしなければならない。言いたいことがあったら言えばいい。その代わりそのまま受け入れてはもらえない。だから調節するんだね。100%思い通りにはならいけれど10%は受け入れてくれるかもしれない。それで折り合いをつけるのは壮大な我慢大会というよりもむしろ共同参画といえるよね。