いつでも今から
新品
目新しいものには魅力がある。今までなかった機能とか性能によって世の中を変えてきたからだね。それと同じように若者はキラキラ輝いていて、年寄は旧式で型落ちというイメージを持たそうとしている。だからこそお若く見えますねと言う言葉が褒め言葉として捉えられるわけだね。普通に考えて年相応に見えない、むしろ若くみえるなんてうっかり発言すると大事になるような気がするんだけど、言われた本人も満更でもないらしい。若くみえることが浅はかさだったり大雑把であったり思慮が浅いというイメージではなくて、みずみずしく生命力が溢れて躍動感を感じるというイメージがメインとなっているんだろう。これもよく言われることだけど、年齢カースト制みたいな考え方は日本特有の文化らしいね。何をするにもまずは年齢を聞かれる国は世界では珍しいらしい。
再生
人はいつでも振り返ることができる。それは見直すことができる能力であり、何かを学習する能力でもある。そして人はそれをいつでも使うこともできるし、自らブレーキをかけることもできる。要するに自由自在なわけだね。でも年齢という数値の制限を取り入れることで特別扱いを受けたり、されることが当然だと思ったり、もはやこれまでだと諦めたりできる。そうやって現代社会が構築されているんだけれど、物理的に体力が落ちて視力も弱くなって、細かい作業ができないまでも、できることを見つけようとするか、それとも若い頃と同じようにできないことをネガティブに感じるか、その二択になるようだね。できることをやるという試みはいくつになっても、どんな状況になっても生きる原動力となっているのに、やらない言い訳が当たり前の主張とすり替わってしまうと、もはや生きる屍となって絶望的な日々をただ過ごすだけになる。そうなった人ができることといえば文句を言うことだけになる。なぜなら自ら下手くそでもできることを手放していくのだからね。子供ころのは下手くそなことを楽しんでいたというのに。
したたかに
関節が痛いし、腰も痛いし、目も見えづらくなって実は右耳も聞こえにくくなっている。だから若い頃のように無茶が効くわけではないし、そのせいで壊してしまった部分もあるわけだね。今は経験と知恵が多少あるのでそれを武器にできることをやればいいね。もう若さゆえのエネルギーと成功体験にしがみついている場合ではない。結局もう無理とか変わりたくないという思いがどこからくるかというと、すべて自らの若い頃へのこだわりでしかない。この歳で失敗したらかっこ悪いとか、若い子より下手くそだし覚えも随分悪いことを恥じるとか、そういうくだらないプライドがすべてと断言していいね。そんなちっぽけな自我からくるプライドなんて、もはや数十年前の映画のチケットみたいなもので今更それでなんの役にも立たないね。いくつからでもやりたいことをやるのが生きることなんだということに気づいている人たちは、やっぱり素敵だしそこに年齢なんてつけ入る隙もない。