安全地帯で

日々

あーよかった

安心とか安全とかをごっちゃにするようなこの世で、本当の意味で心が安らぐ場所はどこにあるかな。安心と安全は同じような意味で使われているけれど実は併記するようなことではまったくない。簡単に見分ける方法として対義語を考えるとよくわかるかもしれないね。安心の対義語は不安だね。それはあなたがそう思っていることだから主語は誰かになる。わたしは安心です、彼は不安です。といった具合に使われるね。こういうのを主観的と言ったりもするね。一方で安全も同じような意味のイメージしかないかもしれないけれど、対義語を探してみよう。安全の対義語は危険だね。危ない状態のことだから、わたしは危険です、なんて言うことは意味が曖昧になるね。私の命が危険なのか、私の行動が危険なのか、その両方なのかがよくわからない文章になる。これは安心のように主体的なものに向けられる言葉ではなくて、社会の安全とか交通の安全とか工場の安全とかいう主語が客観的な対象物がしっくりくる。安全な社会の中で安心している私がいるという構造しか辻褄は合わなくなるね。細かく言えば安全・安心という段階的な表現になるはずだね。でも安心・安全という表記がしっくり来る。これほどまでに違う性質の言葉がなぜ一緒に語られるのだろうか。

安全な状態

安全な状態とは社会や環境やあなたを取り巻く周りの状態であって、ややもすればあなたが個人で頑張ったところで実現不可能なことが多いね。交通安全はいつものスローガンだけれど、いくら完璧にルールを守ってみても絶対安全とは言い難いね。むしろそうやってルールに固執するほど危なくなることが多いかもしれない。そこは臨機応変に対応することと危険予知トレーニングを積んだほうがむしろ安全なのかもしれないね。すなわち安全とはあなたの責任でないことがほとんどで、むしろなにかほかのもののせいでもあるから、その危なさをどれだけ減らすことができるかにかかっている。だからこそあなたがそういった環境や状況に身をさらさないということのほうに注目しがちだね。ゼロリスク社会とか最近では言われることが多いのかな。交通事故にあったらどうするんですか、と批判するのなら家から一歩も出ないことがリスク回避となる。感染症にかかって重症になったらどうするんですか、という回答も同じことになるね。そういった人たちは死んだらどうするんですか、という回答はシンプルに生まれなかったらいい、というのと同じであることに誰も気がついていないのかな。

安心したい

安心を求めるとはどういうことか。心が落ち着く、ほっとする、とてもリラックスして無防備な状態で安らかに過ごしたいという欲望はあなたにしか起こり得ないね。彼は安心してぐっすり眠っているけれど、あなたは全く不安で眠ることさえできない。その違いはどこにあるのだろう。おそらくあなたはこう答える。彼は無頓着で無神経で何も状況がわかっていないからそうなるとね。一方であなたは繊細で常に細やかな変化を感じることができる高精細なセンサーがあるから、それらがあなたの心をかき乱すんだと言う。この場合はおそらく「考えすぎないように」というアドバイスがくだされることが多いね。頭であれこれと先回りして常にシミュレーションという計算をフル回転させている。そのパラメータは複雑だから台風の進路予想のように結果に振れ幅が出てしまうね。だから思いつく限りの「最悪の状況」に対する対処方法を計算し続けているようなものだから、いっときも休まることはない。そういうときはコンピュータなら電源ごと抜けばいいように、あなたもまるっと停止するしかないね。それは死んでしまうことではなくて考えることから離れるということ。何も考えずボーッとすることは実はやってみると大変むずかしいことだと気がつくよ。何も考えないというプログラムが実はフル回転していることに気づくからね。究極の安心を得るためには安心しようとすればするほど遠ざかってしまうんだよ。安心・安全と言った言葉が出る時点でアウトだね。