命をお金に
わからないと言えない社会
わからないことをきちんとわからないと言える人は意外に少ないね。これは基本中の基本のことなんだけれど、特に科学信仰が進んで小難しい言葉で学者が話すものだから、首都の知事もそのまま英語をカタカナにして流行語にするようなことが日常的になっているね。もう死語になっているものも含めて日常的に使わない言葉で報道される世界はろくでもない世界だと考えていい。クラスターとかソーシャルディスタンスとかオーバーシュートなどは最近はあんまり見かけなくなったかな。ブレークスルーとかはちょっと報道されたけれど、これはあんまりお上にとっては好ましくない情報だからあまり流行らそうとする意図はないみたいね。そうやって目くらましのような言葉を使って逃げ切ろうとする姿勢は、誠意のかけらもない世界だから華麗にスルーした方が幸せなのは事実だね。有名人からコメンテーターから評論家まで皆知ったかぶりな顔をして何かを発言するけれど、それらはすべて聞かないほうがいい言葉でしかない。わからないことをすべてわかったフリをして騙すことは今後重罪にした方がいいと思うけどね。
村八分という記憶
五人組とか村八分とか日本の為政者が警察を増やさずに治安を維持するために導入した仕組みがある。古くはイギリスにもパノプティコンという中央監視ができる牢獄があった。これは看守がすべてを見渡せるような仕組みになっている。そうではなく日本は連帯責任制によって隣人・友人・親族同士にこれを科す。治安維持にとってはとても優秀な制度であって学校をはじめ、あちこちに導入されたね。この制度がまだまだ土着の風土に根付いていて皆が我慢して守っていることを破るような輩に対して、誰に言われるともでなく成敗してしまう機構が働いてしまった。マスクしていないで買い物しているだけで、わざわざ注意したり叱責したりする。それは特に治安維持を仕事にしているわけでもない有志がそうする。ワクチンはメリット・デメリットを鑑みてそれぞれが任意で判断して接種するものであるのに、接種しようとしない人を遠ざけたり仲間はずれにしたり迫害したりまでする。そして最悪なのはその基準となる正義としての情報がテレビで芸能人が言ったことだったりする。そもそもそんな発想が生まれること自体が、それほど己の命が惜しいかという観点からすると日本の武士道とは相反する農村文化がまだ残存していることが驚きだね。でもそう指摘されると、今度は大切な人を守るためとか辻褄の合わない論理で平気ですり替えてしまう。ま、それもテレビで言っていたからだよね。もはや生命まで自由に操ることができる能力が備わったという幻想を集団暗示としてかけている。そうやって価値観や死生観は知らずしらずのうちに受け継がれてしまうものなんだろうね。
テレビの終焉
新聞はすでに虫の息だ。なぜなら若者が読まない。今支えられているのは古くからの常連さんだけだね。その紙面で色々叫んでみたところで影響は限定的だ。先の村八分残存組ぐらいだね。週刊誌は絶滅危惧種だ。だから本来新聞がすっぱ抜くようなとくダネに特化していたりする。その一方で相変わらず下世話な他人事を正義のふりをしてあぶり出している。これも先の皆と違う偉そうなやつを叩き潰そうとする心理を煽動しての金儲けだね。それをわかっていて一番売れる文章を紡いでいる商売だからなおさらたちが悪い。今すぐなくなっても社会に対する負の影響は軽微だろう。正義を名乗るならせめて商売にしない方が説得力が上がると思うけれどね。そこでネットが対比的に扱われるようになって、テレビの代替品のような印象があるけれど、それは巨大化したアメリカの会社が民間企業なのに世界の警察の役割を帯びてしまったという不幸と同じだろう。動画配信メディアが寡占化すればするほど中身はテレビ化していくのは、歴史が繰り返されるのと同じで不可避なのかもしれないね。また他のメディアが出現することを願っていたりする。この国からは無理だろうな。黒船が来ないと何も変えられない風土と文化だからね。それは長所でもあり短所でもあるのは仕方がない。