手放しの幸せ

日々

手放し

何かを握っていると新しいのものはつかめないね。だから何かを変えようとすれば一旦手放さないといけない。それと同じでなにかにこだわっていると、楽しそうな他のことが見つかったときおいそれと乗り換えることができない。そのこだわりこそがあなたがこれまで苦労して獲得してきたなにかの積み重ねだったりするからだね。でもそれを手放さないと新しい自分は生まれない。そう、何かを手放すということは一旦死ぬことと同じ。そういう意味では毎回生まれ変わっているとも言えるね。死ぬことを真正面から語ることは不謹慎だったり忌み嫌われる傾向にあるのが現代社会だね。誰もが避けられないことなのに、誰もがそれをうまくごまかしているのが実情だね。そして死を遠ざけることで若く見られたいとかいつまでもきれいでいたいとかそういう反動の欲望を操られているわけだよ。

誰が毒矢を

仏教でも有名な話、釈迦が死んだらどうなるかを一切語らなかった例として有名な話で、この毒矢を放ったのは僧侶なのか商人なのかなんて探ったとしてもその間に死んでしまうじゃないかと言うたとえ話があるね。まぁ死んだらどうなるかなんて誰も知らないことを追求したところで時間の無駄でそのうち死んでしまうよという意味だろう。要するにわからないことをわからないままにして目の前のあれこれにこの身をなんとかあわせていくことが、生きるということ。そしてその直ぐ側にはいつも死があって、例えばずっとこれがいいと思っていたこだわりを捨てて全く違うものを試してみるというのは、まさにあなたの小さな死である。くよくよ悩んで泣き疲れて眠ったらくよくよは死んだも同然だね。どれだけ楽しく充実した一日を過ごしたとしても夜はやっぱり眠くなる。眠ってしまうとその日のあなたはそこで一旦終了だね。これもその日のあなたは死んで過去の思い出と変わるわけだから、常に死んでいるわけだ。でもその表現は嫌われることが多いから生まれ変わっているわけだというと受け入れられることが多い。

明暗

明るいことがあるから暗いことがある。この2つは対になっていてどちらかがなくなるとすべてが無になり存在し得ないね。明るいばっかりの世界では暗いはそもそも概念としてない。生死も同じなんだけれど死について考えることを極力遠ざける社会になってしまったね。死ぬことが身近なことでは感じられないようにして生きることばかりにスポットライトを当てて目くらましをしている。でも心の奥底ではその恐怖から誰もが逃れることもできず、流行病での大騒ぎが世界中で起こっている。人々を煽動したり洗脳したりするのはとても簡単で、普段隠されている闇の部分を刺激すれば驚くべき効果があるようだね。そう、すべては反動なんだよ。死の恐怖からSNSでいいねと言われたいという欲望が存在できるんだし、この世でしか使えない地位や名誉や財産を手にしたいわけだし、死んでしまうからこそ色んな人に愛されたいしチヤホヤされたいわけだ。もし死を友達として避けられないと受け入れられたら、やっぱり今という奇跡を大切に生きることになる。だから生きるということは死を受け入れることであり、大きな意味では常に小さく何度も死んでいることを認めることで柔軟に生を楽しめるってわけだよ。メメント・モリ