説明責任

日々

そら見たことか

思ってたとおりのことが起こると、あなたはとても合点がいく。ほら、やっぱり、言わんこっちゃないとなる。一方で思ってもみなかったことが起こると、え?嘘?まじで?やばくない?と動揺する。でも日々出来事は相変わらず何かしら起き続けているね。朝起きたら雨が降っている。あら、雨は降らないと天気予報では言ってたのにとか、外に出れば風が強くてせっかくの髪型のセットが台無しになるとか、友達だと信じていたのに裏で陰口を叩かれていたり、お金がたまると思っていたのに全く予想外の支出が続いたり、もう少し痩せるはずだったのにピクリとも変わってなかったり。それらがあなたなりにその原因を説明できることは好き嫌い関係なくすべてをそのように受け入れて解決するね。ところが説明がどうしてもつかない事はあなたをずっと悩ませる厄介事としてマークされてしまう。

予測不可能

実は出来事は常に勝手に起こるわけで、今雨が降っている理由を探せばいくらでも見つかってしまう。だから賢いあなたはそこそこの追求でそれ以上は突き詰めないようにしているね。天気予報で雨だったからとか、もう少し突っ込んで低気圧の接近のために上昇気流に伴う雲が発生しているからとか、オホーツク海気団と小笠原気団がぶつかりあうところで発生した前線の通過に伴う雨だとか、そしてその気団はどうして分布する地域が季節によって変わるのかとか、そもそも上昇気流がなぜ発生するのかとか、もう数えきれないぐらいの原因がどんどん見つかる。でも大抵はそこまで説明しなくてもあなたは今雨が降っていることに関して苦悩は感じない。その瞬間あなたは雨が降るという事象に関しては当たり前のこととしてあなたの世界の日常風景として取り込まれるわけだ。これは雨以外でもあなたが受け入れることであなたの当たり前のいつもの風景が出来上がる。この仕組みをまずは意識してみよう。

無意味

雨が降る仕組みを説明できたとしても、あなたが思うように雨が降ったりやんだりはしないね。雨が降ることに苦悩を感じないかもしれないけれど、楽しみにしていた旅行の日が雨ならなんてついてないとやさぐれたりする。雨が降ることはあなたの世界では説明のつくことで理解不能ではないけれど、そのタイミングで降るか降らないかは予測不能だね。かと言って天に向かってバカヤローと叫んでみたところで無意味なことも知っている。だからそのままアンラッキーな風景として受け止めている。他には釣りもそうだしギャンブルなんかもそうだろう。釣れること当たることを求めてやることだけど、釣れないし当たらないことも事前に覚悟はできている。もちろんその不確実性を逆手にとって興奮してワクワクしているね。その根底には絶対いけるというなんだかよくわからない確信がある。それが持てない人はそもそもそれらに興味がない。なんだかよくわからなくて説明がつかないこともきちんと受け入れることができれば、あなたの世界では十分説明可能なこととして当たり前の風景となる。すべてはあなたがなんとか説明できるかどうかで世界はできているというわけだ。ということはすべてはそもそもは意味なんかなく、意味をもたせる犯人はあなたってわけだね。