そのうち全部時空を超えるのか
みんなで「せーのっ」ていうことが少なくなる新しい生活様式
今流行の「密」を避ける新しい生活というのは、例えばみんなで一緒に、同時に「えいやっ」てするようなことが少なくなるかなーっと思ったりしてる。
共同作業とか共同生活という、くっついて身を寄り添い合って生きるというのがやりにくくなるなら、離れ離れになってそれぞれのタイミングで何かをするということになると思うの。
今やインターネットが成熟しているので、これまでの生中継、生配信なんかで共有されてきた、スポーツ、講演会、授業、講座、演劇、リサイタル、ライブ、コンサート、プレゼンテーションなんかがアーカイブ化されていく流れになるのか。
ちょっと前は電話でやり取りしていたことも、今はメールやチャットなどテキストでアーカイブ化されていて、もはや電話は相手の時間を無条件に奪う忌み嫌われるレガシーツールと感じる人が増えているし。
やっぱり表情や「ま」をリアルタイムに感じられる「生」がいいとか思う人も一方でいる。動物的な原点なのかもね。でも、おそらくはみんな集まって同じ時間を生きるっていうのは、今回のような流行病が蔓延するとやりにくくなる。
でも人類の歴史を振り返ると、あんまりいい例ではないけれど、反乱や一揆や戦争や革命はせーのっていう同時性がないとうまくいかなかった。途中で裏切ったりする人がいるとお手上げ。テロのようにあちこちで散発するとそれはそれで大きな脅威なんだけど、大衆の民意はとうてい得られにくい。そういう意味ではたいてい集まると悪いことを企てることが多い。よくないことを防ぐという意味ではいいのかな。どうなんだろう?
同時性っていうのは民主主義にとってはとても大切なことで、それが多数を動かしうねりとなり主流になり民意となるわけで、だから何か事あるごとに同じ場所に集まって話し合いをしたり、価値観を共有したりしてたわけ。それぞれが各々にみんな違ってみんな良いなんてのは「統合」という意味ではやりにくくなる。
いまのところ時空を超えられるものは?
IT化が進んでいるとはいえ、人は、勤める会社があり、地域的な村社会や共同体のどこかに所属していることが多い。真の一匹オオカミで生きられたりする可能性は高まりつつあるがほとんどいない。ちょっと前のTVニュースなんかでは、県をまたぐ移動はやめてと声高にいう知事がいたり、そこが境目なの?とちょっとよくわからない単位になっている。世界に目を転じれば、もちろん国レベルで封鎖しているわけで、国内と国外で厳密に分ける方策がとられている。それらの境界や単位を破壊するだけのインパクトを持つのかどうか。
たくさん集まって何かをする。共感とか共鳴とか人類の根幹の波動を果たして制限できるのかどうか。結構むちゃぶりの変化を求められていると感じてる。情報はたしかに時空を超えられる環境ではあるが、実際の物流は超えられてはいない。物理作業もいずれは自動化や遠隔作業が可能になるかもしれないが。
新しい生活様式を求めているけれど、それは単なる手段に過ぎず、本当は別の何かを「しかける」のが目的なのかもしれない。同じ時間、同じ場所を共有することを避けて、人々がくっつきにくくなって、くっつきたくてしょうがない本能を駆動力として、最終的にどうなっていくのだろう?しらんけど。