私キレイ?
私はわたし
現代社会を支える概念で最も重要なものが、同一性ということだね。私はわたし、あなたはあなた、山田さんは明日も山田さんでないと社会が成り立たない。でもわたしが同じ私で有り続けるという証拠も証明もできないのがエビデンス至上主義の現代科学だ。それは当たり前で私がわたしであり続けるという前提があって、その上で科学が出来上がっているわけだから科学の根っこの部分はどうしても解明できない。今では人間はそんなに簡単に変わらないという前提だけれども、人間はどう見ても変わっていることは誰が見ても明らかだしそっちの方が真実だね。あなたの顔の皮膚は1週間もすればターンオーバーする。つまり1週間ぐらいで顔の皮膚の細胞は入れ替わっている。もちろん慎重に同じようになるようにコピーを作って古いのを捨てるんだけれど、まぁたまには間違えるよね。そう考える方が自然だと思うんだけれどどうだろうか。
自然と人工
私という自然物だけが現代社会の都市化した世界で残ってしまう。こればっかりはもう少し先の時代にならないと人間の身体は必要なのかどうなのかを見極める必要がある。都市化とは頭で考えた世界なので概念の世界であるといっても差し支えないね。街を見渡せばすぐにわかるけれども、ほとんどはきちんと目的と役割をもって作られた何かだ。あなたがアウトドアが好きだという自然や田舎でさえ、人の手で整備された山道や田畑がある。庭なんかは半年もほっておいたらいろんな草が生えて埋め尽くされてしまうことは知っているね。だから定期的に草むしりをする。自然はそういう荒れ果てた状態を経てやがて淘汰されて安定的な状態に遷移するんだけれど、それまでも待てないのが人間。だから気に入らないところは全部手を加えて気に入るように変えてしまう。だからいろんな草のことを雑草と呼ぶ。草なんてあなたの思い通りに生えているわけではない、すなわち、あなたが望んでそうなってないものをすべて破壊するのが人間という生き物であることは間違いないね。
契約社会
約束は守らなければならない。それはどういうことかというと人はどんどん変わるということが前提であるということだね。人が変わらない、私は何十年も先でもわたしだとすれば約束を守れなんてわざわざ言う必要はない。だから約束を守ろうというのは人は本来どんどん変化しているという事実からくる言葉なんだよ。幼き頃の写真でも見たらわかるけれども明らかに今とは別人だね。それでも私は変わらないとなる。どうしてそういう錯誤が生じるかというと、街や家は自分の思い通りに手を入れてきれいに整備できる。最後に自分自身だけがまさに自然であってどうもコントロールできない。けれど意識としての私は若かりし頃から何一つ変わってない。そのギャップが耐えられない不整合を起こしている。だからいつまでもきれいに若々しくなるために無駄な抵抗をするわけだし、それが価値があるものだと植え付けられているわけだ。ゴキブリが大嫌いなのも理由は一つ。あなたがきれいに整備したものではなく突発的にあなたの理想郷を破壊するからだね。自然は調整できない。地面が気に入らなかったら舗装してしまえばいい。ダンゴムシもナメクジもコンクリートで固めてしまえば生きられない。ほら清潔。ほらきれい。最後に残ったあなたがある意味一番自然のままであって、一番荒れ果てているわけだよ。