首から下のあなた

日々

文武両道

首から上を文と言い、首から下を武と言って江戸時代の人はその両方のバランスが大切だと説いたのが文武両道という言葉だね。ところが明治以降、この言葉の意味合いが変化してしまって今では数・英・理・国・社みたいな五科目と体育ができるような人をそう呼んだりするようになった。この「体育」という科目は明治以降にできた科目だけれど、この科目は未だになんだかよくわからない立ち位置にあるのはあなたもそう思っているだろうね。なんとなく健全な心身には正しい魂みたいなことをどうやって点数化するのかよくわからない。近代化や都市化がそれだけ頭と身体をバラバラにするような仕組みになってきたからこそ、あるべきところでどういう態度を取ればいいのかがイラストで図解でもないとわからなくなってしまった。マナーとかがその典型だね。それ故に騎士道であったり武士道であったり茶道・華道などの道がすでにあったわけだけど、そういう型にはまる前に型を壊していったのが近代化なわけで、すべてを合理的な意味で塗り替えようとしたとも言える。

型なし

それでどうなったか。今を眺めるとすぐにわかる。頭と身体を切り離したからこそ今の流行病騒動がある。生命は自然なものでコントロールできそうで未だ完全にはできない。だけれども目指す方向が自然を撲滅してすべて人の意のままにコントロールする力を得ること。流行り病をなんとか撲滅して克服できると本気で信じている。まるで地震予知ができて天気予報がとても良く当たると信じている一般ピープルのようにね。でも自然を見ればすぐにわかることがある。すべてが個でありバラバラで、みかんをもぎってみても一つたりとも同じみかんがない。でも頭で信じている概念の世界では誰がどう見ても「みかん」として整理されるね。みかんはみかんだよと。こうやって違うものを同じのものとして認識する力が「嘘を付く」力であり、この力によって現代の科学が成立しているっていうことを忘れてはならない。知らない大人から見れば「子どもたち」だけれど、親からしたら「我が子」であってかけがえがない。政治家からすると「有権者のみなさん」だけれど、有権者一人ひとりは「みなさん」とよばれる筋合いはないね。全く違うものをある意味乱暴にひとまとめにくくって認識して処理できるのからこそ、この世を「嘘」の世界にいともたやすく変える力を持つわけだよ。

コントロール

民主主義とか共産主義とかすべてはコントロールするにはどちらがいいか、という概念でしかない。今の所民主主義の方が自由が担保できるからこっちのほうがいいとなっている。頭のいい人がトップであれやこれやと国の計画を立てて実行してみてもほとんどは失敗であって、うまく行かないようだね。だからそんな賢い一部の人でなんとかやりくりしようとは考えずにそれぞれの現場に任せようという流れがマシだというのが多くの意見を占めている。しかしそれも絶対それがいいとは誰も言えないわけで、おそらく今は民主主義も共産主義も時と場合によってうまく使い分けているような状況だろうね。現代の会社組織は明らかに共産主義体制なところが未だに多いね。構造的にはトップが経営指針を決めて部下に通達してそれをそのとおりに遂行すればそれぞれが暮らすことができるわけだからね。でもそれらをまとめる国家は民主主義で基本は民意を聞くための仕組みが備わっている。とは言え、政治家と実際に手を動かす官僚組織の間には隔たりがあるわけだしそこは民主主義に振り切ってできるのかというとできないことがほとんどだろう。概念化した国家には身体性が希薄になる。身体性とは本来自然の一部であるという自覚であって頭の上と下をくっつけているもの。あんまり頭だけが暴走する世の中にすると身体を動かして幸せを感じる部分がなくなってしまう。身体大事だよ。首から下の部分を思い出してみてね。