やればできるという悪夢
頑張れ
能力は誰にでもあって努力さえすれば、頑張りさえすれば獲得できるものと教えられている。だから太っている人は自堕落で理性が弱く欲望に負けているからどこか軽蔑している人がいる。食べなければ太らないだろうと真剣に思っている。漢字が苦手な子どもに向かって、漢字なんて覚えればいいだけなんだから頑張って覚えなさいと叱りつける。その子が後にディスレクシアだとわかるまでね。いやわかったらなお人並みに読み書きができるように今のうちにと考える親も多い。算数ぐらいはやればできるはずだと言い、体育で逆上がりができないのはやり方を知らないだけなんだから、特訓すればできるようになると断言する。そういう人に共通していることは、自分ができるんだから他人もできるはずという論理で成立しているね。これはとても恐ろしい差別を生み出していることに本人は全く気がついていない。いわゆる能力主義的なステルス差別がそこに発生しているね。
善意が悪意
しかし当人は励ましているつもりだし、誰しもが能力が備わっていてトレーニングや努力をすれば必ず開花するものであると信じている。それができない人は何らかの理由で努力や頑張りをしてこなかった「だけ」であって、訓練さえすれば「誰にも備わっている力」だと言い切る。能力が平等に自分と同じように備わっているという視点でしかない。ところが、どうしても走るのが苦手だったり算数が苦手だったり、漢字や文章なんかが記号に見えて読めない気持ちは理解できない。いやいや自分もそうだったけれども、それをこんなふうに工夫して努力したら克服したよと自らの成功体験を他人にも同様に押し付けてしまう。特に親が子どもを教えるときはそんな状態が多いね。それでいつまでたってもうまくできないと「努力が足りない」「頑張りが足りない」「根性が足りない」「真剣さが足りない」など指導がやがて「足りないことのオンパレード」となる。そうなるとどうなるか。うまくできないことが「悪」と変わってしまうね。もはやこれはれっきとした「能力差別」になっていることに気が付かない。
不平等
あらゆることが平等であるべきで差別に敏感な優秀なエリート層は、とにかく不合理なえこひいきや他人を蔑むことを嫌うはずなんだけれど、実は能力では知らないうちに差別してしまうというジレンマに陥ってしまう。教育問題などに特有なんだけれど、教育の機会を平等にすることで貧困で学校に通えない子どもをなくして、学ぶ機会を平等に与えるべきだと言う。このことに異論や反論を言える人はいないね。しかしながら、多くの子どもたちが同じように学んだとしても、同じようにできるようになるわけがないという事実もどこかで知っているはずだね。そう、もちろんできるようになって得意になる科目があるだろう。その一方でどうしても苦手でいくらやっても覚えられない、うまくいかないものも出てくるのが普通だ。でも暗黙の能力主義はそれを許さない。すべてがまんべんなくできるようになるように頑張れと言う。それができていないのは頑張りが足りないという視点が教育の機会均等につながっているからね。ここまで言えば誰しもがピンとくるだろう。そもそも平等なんてどこにも存在しない。それから全てをそつなくこなせる能力を持つこと自体が極めてまれな存在であるということ。そんなエリートが社会システムを考えると能力差別になりがちだということ。だからあなたはいつもモヤモヤしていたんだよ。正義ぶって正解ぶってあなたをいつも傷つけているのがこの差別の正体なんだよ。