心からの贈り物
プレゼント習慣
現代ではすぐに何が欲しいとお願いすればなぜか自動的にプレゼントされる習慣が世界中で流行っている。それはとても素敵なお話のようで生きていくための必要なモノをおねだりするのではなく、どちらかといえばみんな持っているからとか、流行っているとか、そういう社会的な宣伝に乗っかった欲望が叶うという意味合いが強いような気がする。いま子どもたちが夢にまで見るような欲しいものは、ゲーム機だったりスマートフォンだったりタブレットだったりするのかな。おしゃれがしたい子はお洋服やブランドのバッグや靴が欲しいだろう。もちろん年に一度のおねだりなので特別に普段では手にできない、触れられないモノが目の前にぱっと現れるというイルージョンを否定するわけではないよ。だけどそうやって何かモノを貰えることが幸せであり、どちらかというとそれを手にするための苦労をショートカットして何でもすぐに手に入れられるような人生を理想に掲げたりしないかなとヒヤヒヤして見ているんだよ。まぁ、そんなの考えすぎだろうけれどね。
心を動かすモノ
見渡せば何でもモノが介在するようにできているね。意中のあの子を振り向かせるには真赤なバラの花束が必要だったり、二人きりでおしゃれなデートを楽しむためには面倒な移動時間を自動車で省略することができる。首尾よく二人が幸せに暮らそうと思えば婚約の証の指輪がいるのかな。その後に結婚するならば盛大に祝ってもらうための様々な費用がかかる。さらに暮らすためのマイホームがあって、そして子どもたちが生まれたら毎年のイベントごとに子どもたちの願いを叶えるためにプレゼントを用意しなければならない。なんだかすべてがなにかをするためにモノが必要であって、それはちょっとその時だけ借りたりしてしのげるものでもなく買ってきてそれを与えるという儀式になる。あなただけのモノよという習慣がそこで芽生え、子どもたちはより多くのプレゼントを受け取れるようになりたいと願うわけだね。そんな世の中の仕組みに無自覚に組み込まれてしまって、またそれが幸せになるわかりやすい唯一の方法のように思い込まないか心配だよ。近くの公園の砂場でいろんな世界を生み出して遊ぶよりも、有名遊園地の年間パスの方が楽しいと思ってしまう人生にならないといいんだけれどね。
豊かさ
本当の豊かさというのはモノではなく思い出だろう。だからお金でモノを手に入れるのは一番つまらない。だから買い物してストレス発散するにも、買っても買っても解消しないみたいね。だからどんどんお金が必要になっていらないモノが家中に溢れてしまう。お金を使うという行為は一瞬だけ幸せになるけれど、それは長くは続かないね。その幸せはギャンブルで勝負するときと同じような幸福だからだね。ミニマリストとか断捨離とかも実はその反動で生まれたものでしかない。だから無駄遣いや散財する人がいるからこそ成り立つわけで、それは自然発生した何かでもなく崇高な生き様の哲学でもなく、申し訳ないけれどモノが溢れて豊かな時代の上にしか成立しないものだね。だからガジェットヲタでもミニマリストでもスタイルを変えているだけで根本的な思想はモノに振り回されている部分では全く同じといえるね。どっちに乗っかろうともそれは単なる何かの「反応」の中でしかなく、モノに溢れた時代からとびだせているわけではないからね。モノには心が宿っているけれど、心がなければモノはモノにもなれないから気をつけないとね。