お手入れと自然保護
手入れ
自然と人工という概念の対立があるけれど、手入れはその中間ぐらいの感覚だね。野生の原生林がそのまま残っていると自然がいっぱいだと言うのであれば、人工といえばそれと対象的な都会となるだろう。なら日本の田舎の集落や農村はどうかというと、そこそこ人手が入っている自然と文明の利器の融合状態だね。今の日本の林業の問題点は、そこそこ人手が入って手入れされているからこその豊かなあの状態が保たれているんだけれど、皆がそれを放り出したとたんに鬱蒼とした原生林となってそれはもはや想像する「守るべき自然」とはかけ離れていく。うっそうとしたそれこそ人類未踏の自然はあなたは実は自然とみなしておらず、おそらくはそこにないものとして処理されている。だって人が自然や人工やと区別するためには、まず人がそれを認識する必要があるからね。だから今の持続可能な社会とか言うのもとっても胡散臭いのは、その前提として守るべき地球の姿が人類が誕生する前の地球だってあったはずなのに、そこには全く触れないところを見ると、まぁあれは誰かが仕掛けた何かでしかないんだろうと思うよ。少なくとも子どもたちに教える価値は微妙だね。
宗教と自然
環境保護や子育てというのはすべてそういった何らかの介入を指すわけだね。自然保護するのならすべての田畑は荒野にしなければならず、その方法は全く手を入れないという結論になる。ところが持続可能な社会が目指すところはその真逆だね。適切に人が手を入れてそれを維持するということ。そもそも自然保護と言いつつもそれは「人にとって快適なそこそこの自然」という意味だね。だから手放しを意味することでもなく、いずれ人類も生物として絶滅するのは生物学的な視点で言えばほぼ間違いないんだから、そんな人類が地球のことを心配しているなんて逆におこがましいというかなんだか滑稽なことだね。例えば子供を育てるのにも教育や倫理、道徳を教えないといけないなんて言う前提があって、さらに諸外国ではその根本思想としての「宗教」がある。この国は比較的ルーズな仏教観があってそれほど強く押し付けないけれど、西欧諸国は生まれた瞬間から「宗教」に支配され続けることになる。その根本的な思想を無視してグローバリズムだとか言って勘違いして諸外国と日本を単純比較しても意味がないんだよ。そもそもの世界観や自然観が全く違うんだからね。
侘び寂びと気合、根性
自然と向き合う第一次産業は、自然を手入れすることで少しだけその分け前を人がコントロールできるようにしていた。そういった少し手を入れることでちょうどいい加減というのを探っていったわけだね。完全に支配下に置くためにはそもそも自然から切り離して、養殖や繁茂を人工的な施設で行うことになる。今ではIT技術も相まって数値で管理することが可能になってきた。だから毎年果物の糖度はかなり上がってきて、今ではすっぱいみかんも水っぽいりんごもみかけなくなってしまったね。さらに野菜も一昔前と比べてとても日持ちもするし味も落ちないように改良されている。それは手入れを追求した結果そうなったわけだけれど、さらに行き過ぎるともはや自然という概念はどこまでかという問題に直面するね。現代の都市生活はすべて「こうすればああなる」という思考ですべてが形どっている世界だけれど、それを自然と呼ぶのかそれとも人工物と呼ぶのかという奥深い哲学的な問題に行き着いてしまう。とにかく日常的に手入れすることが仕事であり、子育てであり、毎日の生活そのものであった時代から、今やその手間隙はすべて「無駄」と呼ばれる時代になったね。生きる時間は限られているのだから、そんな掃除洗濯や家事一切、さらに単純労働なんかは機械化・自動化するべきだという時代でも毎日お手入れが欠かせないものが残るとすれば、お化粧と美容ぐらいなのかな?