経済人

日々

常識

常識とは今社会に生きる上で必要なことだと思っているね。でもちょっと歴史を紐解くと常識というものほどその当時の社会情勢で曖昧に決まるものはない。近々の例でいうと戦争していた時代において、鬼畜米英、欲しがりません勝つまではと本気で政府は喧伝していたし、快進撃だと言う嘘の戦局の記事を見てこの国はやはり神の国であり特別だと本気で信じていた人が多数いたね。でもそれは言論統制と同じく政府に忖度したマスコミの捏造記事であり、すべては幻の勇敢さであった。実際の現場の戦局は極めて厳しく、それこそ兵站も期待できず精神だけを鼓舞して戦っていたことは後世になってようやくわかった。しかも現場で戦っていた兵士でさえ真実を知るものは少なく、敗戦を迎えて1億総玉砕という幻は消えたね。戦後アメリカの統治下になってようやくそれまでの反省を考え始めたとしても、いまだにそのことについての議論がかみ合わない。ややもすればまたチャンスがあれば今度こそという思いを持つ人もゼロにはならないね。

社会の真実

科学至上主義になって、再計算が可能で再現性が高いものしか真実でないと断定される時代になって、それまでの慣習や文化的意味のない活動は虐げられてきた。もっと論理的に説明可能な事柄にしないとグローバル・スタンダードからは大きく離れて世界から取り残されるぞという強迫観念から、明治以降近代化を超特急で実施した。そのことでおそらくはとても歪が生じたと推測されるけれど、そんなことより世界の中心と言う西欧思想に追いつけ追い越せでこれまでやってきた。とても精力的に全力を尽くしたけれども、やっぱり根本はそううまくもいかず、ハイブリッドになった部分も多く残ってしまったね。でもそれが今注目され、見直されているのは、行き過ぎた近代化も100%完璧なものではなく、むしろわからないことが浮き彫りになったおかげで万能ではないということが明らかになったね。かといってオカルトチックな生贄の時代までは遡れないけれども、侘び寂びや佇まいのような言語化するには難しいけれど、確実に文化的な何かとして残存して拭いきれなかった何かに思いを馳せる人も出てくるのは必然だと言える。

国際化

グローバリズムに沿うということは、個人が数になるということ。つまりその文化の偏りや数値化・論理化できない何かを抽象化してなかったことにするということだね。そうしてスタンダードな個人を定義することでしか国籍や文化や風土的な何かを超えることができない。そんなパラメータをいちいち参照して計算式には入れられないからね。その最たるものが近代経済学だね。経済人とは損することをしないでどちらかといえば得をすることを求めるという利己的な人物が定義されている上での学問だね。だからその前提とする定義にブレがあれば実際に適用したとしてもそんなにピッタリと当てはまるわけではない。もちろんその部分を考慮しての学問では有るけれども、社会科学の女王とかつては呼ばれて文系なのに数式がバリバリ出てくるので学生は面食らったそれは、いまや行動経済学とかいう新境地に達している。けれどもそれらが社会を変革する原動力になりえることはない。そもそもそれは別の国で生まれていて、グローバル・スタンダードにするにはやっぱり社会の人に関する「定義」が大前提になっているからだね。当てはまりそうに見えて、実はそんなやつはいないという呪縛からは逃れられない。ぶっちゃけ経済理論に基づく経済政策で長期的にうまくいった事例は何一つないことからも、人を定義する学問が陥る罠であるかもしれないね。経済を回すことが大事だと言うけれど、そもそも経済って何かをきちんと語れる人はいったい何人いるのだろうね。