損してる?

日々

功利主義

人は快楽を求める動物である。そうやって定義するのが功利主義の出発点。不快なことよりも快楽を追求することがキリスト教を信仰する西欧で議論された。それは善となるのかどうかが争点となる。キリスト教には戒めがあり原罪という定義があるね。ちょっと知られているアダム・スミスという今では経済学的な意味合いで引き合いに出されることが多いイギリスの学者がいる。「神の見えざる手」なんて言ってもないけれどそう呼ばれることになったこの道徳学者は、今でも資本主義社会を支えている市場の自由が最適な配分になる根拠として取り上げられる。お上や高官があれこれ手ほどきして規制するよりも、市場に自由に任せておけば多少の軋轢を生んだとしても最終的には最適解になるという自由市場主義として変換されてしまった。そのアダムさんはそもそも経済学者ではなく道徳学を専門としていたんだよ。100円のものを愛する隣人に110円にして売っていいのか、その是非を真剣に論じていた時代があった。

質と量

快楽を最大化することが統治の原理として考えるべきだとしたのが、ベンサムという学者だ。ベンサムの「最大多数の最大幸福」というとてもシンプルな提唱はいまだに生き残っているね。シンプルに考えて、幸せな人がたくさんいる方が政治や政策的には正しいとする。これの反論は幸せや快楽は量で測ることができるのかどうか、だね。だらだらしてお腹いっぱいで毎日を過ごすと人類全体は果たして幸せになれるのかどうか、そういうテーマを扱うことになる。量ではなく質だと言い出したのがJ.S.ミルという古典派経済学では著名な経済学者だね。幸せが測定可能なのであれば、経済学で取り扱う自由貿易や経済政策に関するあらゆることが数式に翻訳できるきっかけを作ったとも言えるね。現代経済学の源流がここにある。一般的には数学に質というパラメーターは扱えないということになっているけれども、量が質を圧倒すればその近似値を計算可能だとみなすこともできるという前提で、あらゆる数式とその幾何が生まれたね。

経済人

経済学の大前提として、その中での経済人は合理的に損しないように行動すると定義されている。つまり損することを進んでやりたいと思う人はこの世にはいない世界を前提としている。それと同じく、人は不幸になりたがる人はいなくて、みんな幸せになりたいと考えていると定義できるのかということだね。功利主義批判としては、快楽を求める=幸せを求めるという公式を認めない。たとえ辛くても愛する人を助けるとか、そういう倫理的・道徳的行動は数式のパラメータには入れられない。したがって計算不可能であるとする。今は行動経済学なんかが提唱されているけれども、その経済学という学問の体系としては大きく変化していないように見える。幸せを求めるのが人であって、それをミクロで見るかマクロでみるかで論理を分断させて、政策的なアクションと個人のアクションは別物として考える。それは近代物理学と全くの相関なんだけれど、人を原子や電子と同じく振る舞いを規定して論理的にその性質と傾向を計算するというやり方で現代社会がある。はてさて、経済人として定義されたあなたは今とっても幸せが最大化しているだろうか。ま、ミクロよりもマクロで見るて世界的にはより良くなっているはずなんだけれどね。