初心

日々

手放し

幼い頃、自転車に乗るために練習したね。うまく乗ることができなくて何度か転んだこともある。ところがだんだん慣れてくるとバランスをうまくとれるコツをつかんで、ちょっとやそっとでは転ばなくなる。ついにはハンドルから手を離しても転ばないどころか、ブレーキをかける必要がなければずっと走り続けることができるようになるね。もちろんブレーキが手によってコントロールされているから、公道でそれをするのは危険だけれどもね。2輪車はそこそこスピードが出ていればかなり安定することを体得しているわけだ。それと同時にスピードが出るとそのコントロールはかなりシビアになってくるのもわかるね。危険運転なのでやってはいけないけれど、今では器用にスマホを触りつつ自転車に乗っている人を見かけるね。自転車に乗ってバランスを取ることがすでに当たり前の行為になっているからこそできる技だね。何度も言うけれど決してそんな運転を推奨しているわけではないよ。

運動エネルギー

自転車やバイクだけでなく、自動車も同じようなことが言える。自動車免許を取るときに運転操作や状況判断など頭であれこれ考えて同時進行でこなす必要があると知ったときに、あなたは今ほどスムーズに連続して操作できなかったね。あれこれと手順を思い出しながら運転していたはずだから、少しの距離でもかなり緊張して疲れていた。これなら車は運転せずに助手席でのんびりゲームでもしている方がラクでいいなんて思ってたりしていた。けれど今では手足のように思うがままに操ることができる。身体の一部となった自動車は今では欠かせない生活の一部となっているけれど、ほんの少しの気の緩みでヒヤリとした場面も何度も体験しているね。そこで垣間見えるのはある程度スピードを出すとコントロールはどんどんシビアになってくるってことだね。逆にコントロールする必要がない場面ではいくらスピードを出してもなんともないように感じてしまうものだね。

視点

車に乗って時速50キロで走っている。ダッシュボードの横のホルダーに取り付けたスマホにLINEの通知が来る。なんだろうと思ってちょっとタッチして見る。特に危険が少ない状況であれば日常の風景だね。自転車に乗って駅に向かっている。ヘッドホンでお気に入りの音楽を聞きながらね。途中聞きたい曲を思い出したからポケットからスマホを取り出して選曲を変える。もちろん周囲の安全を確かめてね。これも日常の風景。ほとんどは何も起こらない。だからそれがどんな行為なのかすらもわからないね。運転技術だけをみればいい意味でそれだけ熟練しているとも言える。ところが運転しないで外を歩いているもうひとりのあなたがそれを見たらどう思うかな。ああ、危ない運転だと思うかな。それともなんとも思わないかな。たまに初心者に戻るとまた新たな感覚が生まれる。何事も当たり前になる前はありがたいことだったはずだね。