後悔しようぜ
やり残したこと
今日と言う日が人生の最後の日だとして、あなたは悔いのない人生を送ってきたかな。なんて問いかける自己啓発本が巷にたくさんある。その言葉にハッとしていつか死ぬんだったら精一杯努力してやりたいことをやらなきゃと奮起するというシナリオだね。明日死ぬかもよ、と問いかけられるといつもは封印している死と向かい合って、何らかのアクションを起こすという仕掛けだね。でも不思議なことに「悔いのある人生」を体験できるのもすごいことなのにも関わらず、夢を叶えるとか好きなことをやるとかに価値があると思いこむのがあなただね。どうしてそう思うかといえば、長年の「努力して夢を叶えることが素晴らしいことだ」と吹き込まれてきた罠なんだよ。だらだら生きてああもっとダラダラしたかったと後悔する人生がどれほどかけがえのないもので、素晴らしき人生だということを忘れてしまっている。努力して夢を叶えるのと究極にダラダラして過ごすのは一度きりの人生の奇跡で言えば同じだということだね。
後悔
悔いのないように頑張るとか、後悔先に立たずとか、そうならないような戒めはたくさんある。だから、何もしないことが悪になって、何かをして失敗しようということが善になっている。それを基準にしてしまうと、何らかの理由でそうできない人生はクソみたいに見えてしまうね。本当にそうだろうか。偉人になっても無名であっても人が永遠に何かを残すわけでもなく、そもそも人類という動物自体が泡沫の存在なんだからどちらも同じだね。人類の叡智とか自慢気に語るけれど人類が絶滅すればすべてが幻になる。そもそも今を受け入れて生きることが幸せなんだと教えることが多いのに、後悔なんて続いてもいない過去を生み出している。その姿はどうしようもなく茶番だね。今を生きるということに「後悔」なんてそもそもないんだからね。死んでから後悔しないようにという戒めはおそらく勤勉さとかを押し付けるための呪いの言葉だね。今日が人生最後の日だったら、あなたは何を後悔しますか、なんていう問いに反応することがすでに悪魔のシナリオに従っていることになるから注意しよう。
死は他人事
心配しなくてもあなたは死なない。死というのは生から見つめた定義だからね。愛する人の死はある。身近な人の死もある。遠くの誰かの死もある。ないのはあなた自身の死だけ。もっといえば生もない。あなたは生まれた瞬間のことはどうしても思い出せない。気がついたらここにいるね。そうして写真であなたが赤ちゃんだった姿を見ることになる。ああ、そうだったんだと思っているけれども実感がない。ということは他人の死があなたの世界にはあるんだけれども、あなたの世界には自分の死はどこにもない。そこを狙って死を他人が押し付けるわけだからあなたはかなり動揺するね。でも結局は関係性の中にしか死は存在し得ないということだから安心していい。誰もがいつの間にかこの世に生まれ、いつの間にかいなくなっている。当人からすれば、この世から自分がいなくなったことすら気がつく術がないから、どうにもこうにも気づきようもないということだよ。