考えよ
一問一答
特に問題集とかドリルが思考を止める原因なんだけれど、どんな問題集の裏にはこたえがある。それに慣れてしまうと正解がない問題なんて気持ち悪くて仕方がない。ところが、社会に出ると正解のない問いだらけで絶望的になるね。特に解法のパターン化とか特徴を掴むのに優れた能力があってそれまでは秀才や優等生と呼ばれていたはずなのに、人生の問いはそのルールに全く当てはまらない。あれこれ試行錯誤している中で見つけようとするものの、有るパターンに当てはまりそうで当てはまらない。当てはまったとしても誰かにそれじゃないと言われることが多々あるね。まぁそうやって意見がたくさん集まって塗り替えられることで今の豊かさがある。答えがもしあらゆることにおいて一つであれば、そんな無駄なことは誰もしないし、悩みもなくなるし、合理的に人生は進むことになる。おそらくは環境変化による受容性やいい加減さがなくなってとっくの昔に人類は絶滅しているだろうね。
社会問題
問題と言えば必ず答えがあると大人になっても勘違いしている人が多数いることがわかってきたね。特に最近のSNSの発達と進化によってそういう「反応バカ」や「クソリプ」つける現象が浮き彫りになってきた。しかもろくに文章を読解して文脈まで理解できる言語能力が著しく低下している。いいね!しかつけずにそれだけでなんか世界に発信しているかのように錯覚している「バカ」が多い。またSNSはシステム的にそうやって夢中にさせるように仕掛けてある。そういうことも見抜けない多くの一般大衆は表面的な誰もが発信者の時代を謳歌している。だからどんなことが起こるかは明白だね。自分と意見が違うやつは「間違っている」から正しく矯正しなければならないと思い込むわけだ。ところが、正解がある問題は調べたらわかること。つまり「ググレカス」で終わりだね。正解がある問題で悩むことはそもそもない。ところがやっかいなのは正解なんて誰もわからない問題だね。それはそれぞれが自由に「意見」することができるし、自分の意見と違うことが当然だし、先に言ったようにそういう幅と多様性があるからこそ人類は生き延びてきたし豊かな社会になったわけだ。さらにたちの悪いことにろくすっぽ言語能力が低下していて、写真や図や動画でしか大意をつかめない。だからきちんとした意見を言語化すらできない有様だね。
良い悪い
そんな能力低下を起こしてしまうと、良いか悪いかを決めたがる。なぜならその方が「わかりやすい」からだね。「わかりやすさ」を重視して物事を捉えることしかできなくなると、そういう二元論という狭い選択しかできない人生となる。だからSNSで炎上とか論争とかなっていると言われているものでも中身は単なる「リアクション」に過ぎないね。要するに「反応」とか「反射」と呼ばれる言葉が行き交っているだけ。中身は空っぽ。しかも悪いことに有名インフルエンサーが好きだからそれに従うとか、ひろゆきが言っているからとか、そういう「リアクション」を自らの意見だと勘違いして主張している。所詮それは自分の立場を明らかにして考えた意見ではないから、他人からの意見や問題提議には耐えられないハリボテでしかないね。しったかぶったの中身は空っぽってやつだ。でもそれがなんとなく発信者の喜びとして捉えられ言論の自由の行使だと思っている。正解のない問題には良い悪いはそもそもない。誰もわからないのに俺だけ知っているなんていう展開は今どきの小学生すら見向きもしないはずなんだけれどね。あなたは大丈夫かな。