俺さまと自由
恐れ
つくづく最近の騒ぎで再確認できるのは、恐れとか恐怖というのは実際にそこにないものからくるのが最強であって、しかも誰もその正体を知らないということ。わからない、知らないことが一番恐怖として長引くんだね。ゾクッとするような恐怖は一瞬で終わることが多いけれど、何年も脅かされるっていうことの正体は、もはや本能的に感じる恐怖からは遠く離れてしまっているね。ジャングルで強そうな動物にばったりであったとき、食べられてしまうかもしれないという恐怖はアドレナリンを全開にして、どうやってその場を逃げるかという一瞬のすきを探すことになるね。ほんの一瞬の判断の迷いが生死を決める。ところが最近の恐怖は結構悠長に時間があって、様子を見ながらちょっと詳細について検討する余地があるにも関わらず、一瞬で決定する人が多いね。要するにどの情報を元に判断をするかということなんだけれど、一番簡単なのは言われたとおりにするということだね。とにかく偉い先生や有名人がそう言うんだから間違いないということで右へ倣えという感じが一番楽ちんだものね。
論争
推進派とか反対派とか対立構造にして、面白おかしくするのも常套手段だね。そうやってもともと有りもしない派閥を作って論争させることでますます恐怖を煽っている。どうしてそんなに怖いよー怖いよーと煽るのかというと、その方がみんな消費活動が活発になるからだね。要するにものが売れて儲かる人がいるからだね。安心を喧伝してもそれこそ安心してしまうので何もリアクションを起こさない。恐怖を煽ると信じられない行動に人類は出るね。それは先の生存本能を巧みに利用しているんだね。何かが売り切れる、っていう報道がされた瞬間、そこで迷っていては生き残れないわけだから我先にと買い占めるような行動をしてしまう脆弱性があるのが人類なわけだね。なければないで工夫してなんとか凌げる力を今ではすっかり失ってしまったので、一般消費者が自らできる行動といえば、買い占めるかクレームを言うかの2択になってしまった。貨幣経済というグローバリズムに取り込まれてしまった結果の成れの果てとも言えるね。
見えない鎖
ずっとそうやって権威に沿って自分の頭で考えることを外注してきたわけだよ。だからいざ総合的に判断して決めなければいけない、と言われたところで気にするのは周りがどうなんだということだね。多数派が正しいに決まっているという安心感と、それを支える好きな芸能人の言動によって人生の決断をほとんどの人がしているのが実態だね。素敵な恋をして出会い、結婚して子どもをもうけて家を買って、ネコのたまがいてにぎやかに暮らすのが幸せの選択肢だと本気でそう思っている。だんだんそれも古びてきたけれど、好きなことに囲まれて趣味の世界に生きるというのも同じこと。自らが生み出したなにかではなくて誰かの真似でしかない。それも派閥を作って争っているね。結婚する派、結婚しない派、家を買う派、家は賃貸で十分派、ネコ派、イヌ派、そんなことを言いながらお互いがこれじゃなきゃダメと見えない鎖で制限され続けている。それ自体を楽しむのならそれでいい。そんなことよりもいずれにせよ、あなたがどっちであったとしてもそれ以外の人の自由を制限してはいけない。これだけは最低限のルールだと思うよ。でないと、俺が正しいから俺に従えという恐ろしい思想に変わり果てるから注意しないとね。