あんたなんかに

日々

私の気持ち

他人のあなたには私の気持ちなんてわかるはずがないよ、っていう人がいるね。親でもないのに親の気持ちなんてわかるはずがないとか、部長でもないのに部長の私の気持ちがわかるはずがないとか、店長でもないのに店長の私の気持ちがわかるわけがないとか、そんなロジックで論破した気になっている。でもそれを言うと他人のあなたがわたしの気持ちなど1ミリもわかるわけがないというロジックと同じであることに気がついているのかな。そうなると共感や対話はすべてムダに過ぎないとコミュニケーションそのものを否定することになる。それはすなわち言葉を操る人間社会への反駁であって、それならば誰とも気持ちを通ずることなく死んでいくのが定めだと諦観するだけの人生を選択していることになる。誰でもいいから話を聴いて欲しいという人類の根源的欲求に蓋をする生き方を選ぶとなると、共感や相談はすべて封鎖され誰にもわかってもらえない孤高の人生を歩みますと宣言しているようなものだね。そんな生き方でうまくいきることができる人なんて居ない気がするんだけれど、どうだろうか。

個人主義

究極の個人主義のように見えるそれは、実はまったく逆だね。わかってもらいたいからこそそういうことを主張するわけだよ。ちょっと共感されているだけでは物足りず、かといって反論できるほどの言語能力も表現技法もない。さて困ったな、どうするか、このままでは私のプライドが許さない。私はもっとハイレベルで物事を捉える力があるように見せたい。というわけで最後の手段として「私の何があなたなんかにわかるというのよ」という作戦を使ってしまうわけだ。これは一番やっちゃいけない作戦であることは明確だね。それを言っては親身に話を聴いてもらったり相談に乗ってもらったことに対して泥を塗ってしまう行為だからだね。こういうタイプは知能的には中の上ぐらいだという自覚がある人に多い傾向があるね。下町の肝っ玉母ちゃんはそんなこと言わない。レベルがどうのよりも今の人生が充実しているかどうかですべてを決めているからだね。ちょっとハイソサエティな感じで中流どころの自覚はあるよってな母上がそういうことを言って周りをドン引きさせている

子育て自論

人をどう育てていくかというのは、個人の問題ではないね。社会全体の問題であることは間違いない。だから村のコミュニティでは誰の子はあまり重要ではなくて、村の子であることが重要であったわけだ。未来を担う子は誰にとっても宝物という考えだね。今は違うね。まるで我が子をペットのように溺愛している親が多すぎる。そりゃ誰にも相談できず、私の気持ちなんてわかるわけもなく、親になるための資格や準備があるわけでもないから、ぶっつけ本番で目指すところはわたし以上ということになるのは当然だね。そうやって孤軍奮闘しているのが今の親。昔はじいちゃんばぁちゃんに相談できたし、近所のばぁばにも色々話ができた。今は核家族になって手本はインターネットとYouTubeで見るしかなくなっているね。読み書きそろばんという時代から、生まれたときからスマホがあってタブレットがある時代。子育てが難しくなったのはそれだけ時代が大転換しているからであることは間違いないね。こういう正解なんてない時代に生き残る力を授けるのならば、自分の頭で考える方法っていうことだけを教えればいいね。それ以外の自らの経験で持っているはそれが正解だったという事例はおそらく全部ゴミになるからね。