言葉になる前

日々

クオリア

幼い頃、大人が飲むビールの味がよくわからなかった。初めて少し口にしたらとても苦くてまずいものだと思った。そしてそれが大人の味だと言われたけれど、そんなもの一生飲まないと思っていた。ところが今はビールの缶を見ただけでその味があなたの頭の中で弾け飛ぶわけで、飲みたいという衝動に駆られるようになったわけだ。不思議なものであんなまずいものと判断した幼い頃のあなたは一体どこにいったのやら、という経験をしたことになる。特に五感の中でも「味覚」に関しては言葉での表現の奥行きが狭いね。いわゆる言葉にしにくいし、うまくメタファーを使って表現したとしても、実際に少しなめてみて確認することが一番だというのがクオリアだね。説明できないけれど脳の中にははっきりと浮かび上がっているそれがそうだ。

同じ赤でもいろんな赤がある。赤と言われたらあなたの頭の中にある赤がぱっと浮かぶね。それを聞いていた隣の人にもぱっと浮かんでいるはずだ。そのことによって赤を共通言語としてある程度は言葉にすることができる。でも色鉛筆や絵の具を見ればわかるように、赤でも無数の赤があることがわかるように、あなたの赤と友人の赤の違いを説明することは難しい。ところが色鉛筆や絵の具があることによって指を指してその赤じゃなくてこの赤に近いとか具体的に言葉化して説明できるのが「色」の世界だね。なので具体的に色の微妙な違いをどうにかこうにか言葉化することができるように思える。けれど一番致命的なのは今あなたが見ているその色鉛筆のグラデーションと、あなたの友人がみているそれが全く同じ色味で揃っているという保証はどこにもない。だから微妙な差異を伝えてどうにかこうにかクオリアを説明できる可能性が高いようだけれど、実はそもそも全く違うものを見て話をしてみたらたまたま話はあっていたということになっていても誰も気がつかないね。

浮かぶそれ

あなたにはぼんやりとであろうと、はっきりと浮かび上がっていようと、言葉をきっかけになんらかの映像が頭に浮かぶね。りんごと聞けばりんごを思い浮かべる。みかんと言われたらみかんが出てくる。それぞれどんなりんごでどんなみかんかはおそらくはわからない。品種も好きなものであれば明確に昨夜食べたみかん、かもしれないけれど、対して興味がなければどこにもないりんごをあなたは瞬間的に生み出すことができるね。さらにどこにもないりんごなのに頭の中では明確にそのディテールまで観察することができる。それをああだこうだと人に説明しようにもパーフェクトに伝えることは到底できそうにもない。ところが目の前にりんごかみかんがあれば、一口かじってみれば一発でわかるね。人生は言葉でできていてあなたも言葉から浮かび上がった幻影なんだけれど、りんごとみかんの違いはかじったらすぐにわかる。これが言葉にはできない背後に流れるエネルギーの片鱗というわけだ。すべてが言葉化できないのは、言葉になる前のなにかがあるからそうなっているんだろうね。しらんけど。