自分で考えよう
段取り
計画と段取りはどう違うのか説明できるかな。計画も段取りもあることをなすための要素を分解して何をいつまでにどこまでやるかということを書き出したものであることには間違いないね。ところが計画はどっちかというと客観性がより高く、ある時期にこれこれをするという意味合いが強く予定表や工程表と同じ温度で計画があるね。ところが段取りというと一気に人間臭くなってくる。ある目的に到達するための予定や工程であることには間違いないんだけれど、単なる予定表に書かれている項目としてではなく、すでに人間的な根回しや政治をも伴っている空気をまとっているね。段取りとはアクション的には小さな戦術プランで使われることが多いのは、そういう意味でいろいろな予定を阻害する人間関係まできちんとおさえてありますよ、的なものを段取りという。この違いをしっかりとニュアンスを含めて区別している人はもう現代では少ないのかもしれないね。
根回し
何かをやろうとするときに自然とこの因数分解のような要素分解を頭の中でできる人と、言われたことを言われたからその通りにやろうとする人との差は成果物をみれば一発でわかる。いわれたとおりに忠実にやっている人は同じ苦労をしているのにも関わらず、成果物が高く評価されることは少ないのが現実だね。それは言われた以上の成果物にならないからであり、言われたことだけを実現したところで実際には不十分どころか、試作品の域も越えられないものが出来上がるのがオチだね。なぜなら実際には成果物を作り上げるまでの要素分解によって、その時に初めて不足しているものに気づくからだね。それを補いつつ成果物の想定クオリティを微調整しながらそこまでやること、必要条件をあぶりだしていく作業が必須なんだよね。ところが言われた通り、マニュアル通り、説明書通りにやるとその予想して下準備しておくという工程が一切なくなるため、100%完璧に書いてある通りにできたとしてもそれなりになるし、少しでもずれやミスがあれば目も当てられないものになってしまうんだよ。でもやった本人はそれこそ細心の注意と丁寧さと緻密さをもってやったのにもかかわらず、一切の高評価を得られないということでそれはそれでショックなんだよね。
逆算
算数が苦手な人からすると、読み書きそろばんの力さえあればあとは気合で何とかなると思っている。ところがこの逆算するという論理的分解の力はますます今後の社会に必須な力となるね。特に何もないところからとりあえずのプロトタイプを生み出す力を求められている社会では、段取り力とその行動力はなくてはならないスキルとなる。現代の教育ではこの部分を養うカリキュラムが皆無だから、今のところ生まれ持った能力があるかないかで決まってしまっているね。でもおそらくは多少の訓練で万全ではなくても下準備と必要な要素をパッとはじき出すことができるようになるはずだね。それが証拠に最初はチンプンカンプンでも場数というか数をこなしていけばある程度は工数が読めるようになるみたいだからね。となると幼少期からそういう要素分解と論理的な段取りに慣れていれば、何か物事を変革したり、新しく生み出したり、そしてたいていはそれを破壊したりすることが効率よくスピーディーにできるようになる。みんないったんは形にしてみようという議論になって、手に取り触りながら改良できる力を持つようになれば、世の中ぐっと過ごしやすくなるかもしれないね。マニュアル通り、言われた通りから脱出するためには、先生や親や上司のいうことをスルーする力をまずは身に着けよう。こんなことを言うからいつも怒られるんだな。