概念の危うさ
正義
正しさをお互いが握りしめていると戦争になるね。最悪の事態になるときはお互いの主張を一歩も緩めない。そりゃお互いが正しいと思っているのだから当然だね。おそらく喧嘩両成敗とかというレベルのものに過ぎないんけれど、やられたらやり返すもやられた方からするとそれが正義だろう。最初に手を出したやつが悪いということになるけれどそれにもそれなりの理由があったりするね。とにかく正しさを握りしめるのはできればやめたほうがいい。正しさなんて絶対的に存在するものではないのは全て終わってから気がつくことになっているのだからね。正義の味方は苦悩の顔でいつもしかめっ面をしている。だってこの世に悪がある限り心休まることはないのだからね。ところが悪はいつも笑っている。この違いはなんだろうね。
民族国家
わたしは何者なのかというルーツは特にいまに始まったわけではない。おそらく狩猟民族から農耕定住化した頃に育てている作物の所有権という考え方が生まれたんだろうね。それまでは大地に名前が書いてあるわけではないので、誰のものという概念すらなかったはずだね。ところが定住するようになってからおかしなことになった。それで貧富の差が生まれ富を集めることが権力の象徴となりムラが生まれたとされている。それが集まってクニになったんだろう。天下統一の戦国時代と後から名付けられた物語は、今でも根強いファンがいるね。とにかく国家とか民族という仲間意識によってある集団がそれで治まったわけだ。当然そこによそ者がやってきて傍若無人な振る舞いをしたら排除されることになるね。その土地にはそれなりのしきたりやルールがある。それら土着の風土を互いに尊重しましょうというのが今の国際ルールとなっている。
戦いの後
国を守るために命を落とすのはやめたほうがいい。とはいえ、わが祖国がやられているのに黙ってみているわけにはいかない。愛する家族を守るために戦うしかない。そんな状況はできるだけ早くなくなることが望ましいね。今回の戦争はもう随分も前からくすぶっていたみたいだけど、いつまで人類はありもしないクニという概念のために戦うのだろうか。戦って勝ち得たその概念はそれだけの値打ちがあるのだろうか。まだまだ国家という概念が溶けてなくなって国境が消えるという時代は先なのかな。地球は一つ、人類は皆兄弟なんて言ってなかったっけ。卑近な例としては、今までなんでもなかった人を集めて、赤組と白組にわけていろんな競技で競わせると、いつの間にかチーム内で団結するようになるね。でも元々は何組でもなかった人たちだ。白組がちょっとずるをして我が赤組の仲間がやられたとなると、なぜか憎悪と復習の感情が芽生えてくる。そういう生き物だと知ればあなたの誇りの化けの皮が剥がれてしまうかもしれないよ。