ちゃんと説明して

日々

譲れないもの

こだわりとか正義とか譲れないなにかを持っているのはかっこいいね。傍から見てて英雄であり、きっと多くの人からすると憧れの存在だね。そんな気高い誇りを持った生き様はたぶん伝説になる。一方でなんのこだわりもなく、風見鶏で飄々とした生き方は揶揄されることが多い。そんなコロコロ意見を変えるような人は信頼ならないし、多くの人からかっこ悪いと思われてしまう。日本という国は、一部武士道であり清貧を良きものとして、恥を一番嫌う文化だと称賛されてきた。生き恥をさらして生きるくらいなら、きっぱりと死んだほうがマシだと信じるような人がいたという。いつも傍らに「いかに死するべしか」と死を連れて歩いて、それがどう生き抜くかという指標であった。そういう生き様がその人にとっての日常だったというわけだね。

人言失格

太宰治が主人公に「恥の多い生涯を送ってきました」と言わせている。なら恥とはなにか。恥ずかしいこととはなにか。それは劣等感であってそれは他人との比較によってしか生じない感情だね。恥を知ることでもはや比べる人生を選択しているわけだ。人と比べないオンリーワンとか言いながらも、人と比べずには居られないあなたがそこにいる。オンリーワンもナンバーワンもそれを意識している時点であなただけでは起こり得ない劣等感を感じることになる。個性も多様性も同じことだね。愛情もそうだね。愛とはなにかと言われて大切に思うとか融合とか評価とか色々哲学者が言うけれど愛は憎しみと同じだね。それは表裏一体のものである。しかもこれも相手や対象がないと始まらないね。そこに愛はあるのか、とよく言われるけれど愛は逆に言えばろくなものではない。扱いを間違えるととんでもない暴力と狂気に姿を変えるからね。だからあんまり愛情なんて持たないほうがいい。危ないからね。

書き割り

恥とかこだわりとか生き様とか愛とか、すべては書き割りのようなもの。だから外堀を埋めるような意味が事典には書いてあるものの、わかったようなわからないような感じになる。その直感は素晴らしい洞察であって、必ず他の対象物が説明の中で必要で絶対自己完結できないね。わかったような感じで説明されているけれど、深堀りしていけばいくほど真ん中にはなにもない。まるで映画や歌舞伎のセットのようなものだね。立派な民家の裏側にはなにもないよう感じ。だから一見わかったような知ったかぶりをするけれど、よくよく説明しようとすると、あれ、なんかもやもやするね。私は山田太郎です、なんてキリッと自己紹介しているつもりでも、周りからするとだから何?って感じと同じだね。山田は田中と違うということしか言っていないし、それが自己紹介としてはとても中身がない。だから続けて趣味は読書です、なんていうしかない。さらに特技は水泳です、とか後でどんどん付け加えたとしても、それらは全部あなたそのものを何も表すことはできない。本当にあなたはそこにいるのか。いるなら説明してよ。なんて言われるともはや言葉にならない。でもあなたは確実にそこにいる。そういうことだね。