ふざけろ!
日常を疑う
いつものように朝起きて学校や会社やカフェに行って、同じ場所に座って同じ時間まで作業をして帰宅する。そんなルーティンも1年以上続けているとなんだか安定感がましてきて、例えばいつもの席が取られていて他の人が座っているだけでやばいと思ってしまう。なぜならそこに座る前提で注文メニューまで決まっているからだね。それ以外の席が空いているけれど座り慣れてないのでどうにも落ち着かなく、普段では考えられないようなミスを連発してしまう。やっぱりあそこの席ではないと調子がでない、なんてもっともらしい分析をしているつもりだろうけれども、いやいやあんたが通い出したのはごく最近のことだよ、と誰かに突っ込まれた方が正常だね。そう、朝の電車に乗る位置が降車ホームの出口の位置で決めていて、そこがスムーズに乗り降りできるからとバカの一つ覚えのようにそこに乗る。でも同じような考えの人が集中してたまに混んでいたりする。なら、空いている別の車両で座っていればいいものの、なんだか損した気分で過ごしているね。それも誰かに「バカじゃないの」と一喝されたらいいね。
意味ないじゃん
それらのすべては「ムダを省く合理性」が根拠になって正当化されている。スマートに生きるということが美徳となって、ムダの多い生活は頭悪くてかっこ悪いと思っているね。部分最適化を自分なりに研究した結果の正解が毎日のルーティンになっている。だからそれ以外の行動はすべて余計なことと捉えてしまうので、思い通りにならないとイラっとしてしまうんだね。そうしてそれらが安定的に稼働し始めると、今度は刺激がなくてつまらない日常の景色になってしまう。あれほど精緻な計算ではじき出した最適解でムリ・ムダなく最小限のエネルギーで生活しているというのにね。そこでブレイクスルーが必要となる。ムダなことをあえてやってみるということだね。興味もないけれど映画を見てみるとか、よくわからないライブに出かけるとか、行ったことがない山に登ってみるとかね。するとどうだろう。なんだかワクワクしてパッと世界が広がるような感覚になった体験があるのではないかな。
エコシステム
意味がないというところから意味が生まれるのが喜びや楽しみの正体だね。同じことを同じようにできるスキルは大量生産時代のマニュファクチャリングにはもてはやされたもの。まるでロボットのように正確に作業がこなせるんだからロボット要らずだね。ところが現代はロボットのほうが正確な上に、あなたより疲れをしらない連続勤務ができてしまうね。だからそんな超優秀なやつとその分野で競うのはやめたほうが良い。ということは、今までムダだとか意味がないとか生産性がないとか言われてきた、旧来の言い方でいえば「遊び」が今後の生きる糧となるはずだと気づくね。そんなことしてなんになるのって親や先生に言われるようなことを追求することがこれからの生きる喜びと力になるってわけだ。古い教育を受けてきた人は、勉強もしつけも人の言いつけを守って我慢し楽しいことは極力控えるということを教わってきたね。でも今後の社会を生き抜くために、もはやとっとと忘れた方がいい。真剣にふざけられる人が生き残ること間違いなしだよ。なんだそんなことかとやってみようとしてもマジでできないだろうね。たぶんびっくりするよ。もはやあなたはふざけるスキルさえ劣化しているよ。気をつけてね。