文字数
目論見
なぜかいつも理想があって、そのとおりになるとガッツポーズだしそれに近いとまぁ普通だねっていう感じで、大抵はそのとおりにうまくいくことはないね。だから理想と現実という対比でいつも語られるのだけれども、理想と現実という言葉が対になっているのはよく考えてみると不思議なことだね。理想とは存在しない夢や希望を指し、現実とはおそらくあなたの目の前に起こるそのままのことを指す。現実は厳しいという表現があるように、いつも目の当たりにするそれは理想とはかけ離れているのが常であるという前提がそこにある。しかしながら夢や希望はあなたの空想にすぎず、仮にそのとおりになったところで思わぬ落とし穴があったりする。大抵なことはやってみないとわからないのはそれ故だね。現実は厳しいという認識は誰かに刷り込まれた罠だろうけれど、なぜかあなたはそれをしっかりと受け止めているね。
情報過多
今では世界中で起こっている様々なことをまるで見てきたかのように知ることができるね。ところがその情報はまさに玉石混淆であってそれを選別できるリテラシーが必須とされている。誰かの行動や意見に対しては、思わず感情的にリアクションを書き込んでしまい法的に訴えられたりして問題にもなっている。たいていそういう人は思ってもないことを書いてしまったとか、思わぬことを口走ってしまったぐらいな言い訳をする。おそらく独り言のような感じなんだろうけれど、その独り言は世界中に拡散されている自覚さえない。まさに空想の中でつぶやいたつもりが、現実では思ってもない人々に伝わってしまったという体だね。でもそれは本当だろうかね。誰も聞いていない独り言もつぶやくだろうけれども、やっぱりそれを拡大したい根本的な欲求に沿った行動のように思えるんだけれどね。
言語能力
言葉を操る能力は年々低下していると言われている。明治初期の文豪たちの文章はもはや令和の若者にとっては古典だろう。読み解こうにも言っていることや表現が普段操っている言葉の世界とは乖離が大きすぎて現実味がないだろうね。だから理解するのも面倒に感じるだろう。言葉の乱れは生活の乱れなんていう古臭い教師も少し前まではいたけれど、乱れとはもはや自らが基準になっているのでおそらくは現代の若者がそれなりの年齢を重ねると同じようなことを言い出す人もいるだろう。言葉は目の前の現実をどのように捉えて形作るかという材料になっている。だから言葉が変わることは世界が変わることと同じだね。語彙力を駆使して比喩表現に奥行きをどうもたせるかなんてうんうんうなって何度も書き換えていた時代とは違って、今はシンプルで少ない文字で同じように現実をどう表現し共感を得るかが勝負になっている。文章の表現の巧みさよりも現代では如何に文字数を少なくするかにシフトしてきているようだね。どちらが良い悪いではないのは言うまでもないよ。